「おめぇら、いづまでも調子んのってんじゃねえかんな」という茨城弁の決め台詞で、『エンタの神様』や『爆笑レッドカーペット』でインパクトを残したお笑い芸人の赤プルさん(47)。ヤンキーから芸人というユニークな経歴の裏には、将来を迷いながらの紆余曲折があったそうです。(全3回中の1回)

真面目な優等生がいじめられ「ヤンキーに救われた」

── 人気バラエティ番組『エンタの神様』では、ご出身の茨城訛りの決め台詞が注目を集めました。茨城での子ども時代はどのように過ごしていましたか?

 

赤プルさん:子どものころは学級委員に立候補したり、なんでも率先してやるタイプでした。基本的に真面目なタイプだったのですが、中学のときにいじめにあったんです。親友だと思っていた友達とのささいなケンカがきっかけで、バスケ部の友達から仲間外れにされて。そのあとクラス全員から突然、口をきいてもらえなくなりました。

 

自分は優等生だと思っていたけれど、どこにも居場所がない。教室に入るのもためらわれて廊下でうずくまっていたら、校内をうろついていた不良のメンバーに「どうしたんだ?」って声をかけられて…すごくやさしくしてくれたんですよ。ヤンキーって仲間思いだから(笑)。それでやりとりをするようになって。それから、持ち前の目立ちたがりな性格とリーダーシップを発揮して、気づいたらそのグループのリーダー格になっていました。楽しくグレた感じですね(笑)。

 

そういえば、小学校の卒業式で担任の先生から「ゆうこちゃん(赤プルさんの本名)は不良にならないでね」って声をかけられたんです。今にして思えばヤンキーになる予兆を見抜かれていたのかもしれません。

 

赤プル
不良たちと仲よくし始めたころ

── 周りにもヤンキーが多かったのでしょうか。

 

赤プルさん:茨城の地元は、ヤンキー文化が根強い地域でしたから。当時はひとつの街にひとつのグループというルールがあったのですが、すでに対外的にも認知されるレディースのグループがあって。だから私たちが新しくグループを立ち上げようとしたら、隣町のグループに潰されてしまって。結局立ち上げには至らなかったんですよ(笑)。

 

── ファッションも、優等生から不良っぽく変わったのですか?

 

赤プルさん:ちょうど不良の漫画が流行っていたので、マネをして学生カバンをつぶしてみたり、不良に憧れて長い丈のスカートをはいてみたり、髪を染めたりはしました。中学校自体が荒れていて、学校内を保護者が当番で見回りパトロールをしていた時代です。学校の窓ガラスはかろうじてあったけど、スプレーの落書きとかはよく見かけたな。不良の先輩が中学校にバイクでやって来て、そのバイクに乗せてもらったこともありましたね…。

ヤンキー仲間とつるむも家族は黙って見守ってくれた

── かなりやんちゃだったのですね。ご両親はどのような反応でしたか? 

 

赤プルさん:実家が寿司屋で、父は厳しい人でした。小学生のころはいい子のフリをしていたけれど、中学になると「自分の気持ちをもっと外に出したい」って思い始めて。というのも、うちの両親は仲が悪く、しょっちゅうケンカしていたんです。そういうのを見ると、「あんな親の言うことを聞きたくない」って反抗心がますます強くなって。思春期にありがちですけど、「誰も自分のことをわかってくれない」って思いこんでいました。

 

赤プル
中学生のころ。特攻服がお似合いです!

── 学校でのいじめや、家庭内の不和で塞ぎこんでしまったのですね。

 

赤プルさん:両親は心配してくれてはいたんだと思います。でも、悪いことをして引っぱたかれるたびに嫌になって。家に帰らず、夜中に車で捜索されたこともありました。周りには、本当にグレて家出する子がいたけれど、私はもともとが真面目な性格だから、そこまではできない。むしろ不良仲間のお母さんから娘がグレてしまったことを相談されたりもしました。今思えば、周りの調整役になっていた部分があったかもしれません。

 

── そんな赤プルさんだから、ご両親は本当に悪いことはしないと信じていたのかもしれませんね。

 

赤プルさん:高校生になっても、しょっちょう彼氏を家に連れて帰ったり、破天荒な行いは相変わらずだったけど、親はあれこれうるさく言わずに見守ってくれました。心配はたくさんかけましたが、信用してくれていたのかなって思います。