同じ目線で寝転がる2人を見て「幸せ」

── 未来くんは、しばらくNICUに入院していたのですね。
しほさん:3か月ほどNICUにいました。私は1週間で退院して、母乳を届けに病院へ通いました。当時はコロナ禍で1人しか面会できなかったので、私が週5、6日、パパが1、2日のペースで面会していました。NICUにいたので、おむつを替えるのも病院主導なんですよね。目が乾燥しないようにラップをつけていたので、ラップをちょきちょき切るとか、何かしらできることをして、あとは隣に座って手を握っていることくらいしかできませんでした。
未来が退院するには、クリアしなければいけない条件が4つありました。1つ目は、呼吸が安定して、家庭用の呼吸器で呼吸を維持することができるようになること。2つ目は、消化が安定して、自宅で経管栄養の管理ができること。3つ目は、まぶたのない目を安全に管理できること。4つ目は、頭の骨がないので、頭部を安全に守れることです。
呼吸と栄養は、未来の体が成長したことでクリアすることができました。問題は目で、乾燥しないようにラップで覆っていたのですが、自分の手でラップを取ってしまうんです。24時間見ていることはできないし、拘束もしたくない。先生と相談して、下まぶたを形成する手術をすることにしました。まばたきはできないけれど、目が開いている範囲を狭めることで、目の乾燥は目薬で対処できるようになりました。
ただ、頭蓋骨については「できることはない」と言われてしまい、自宅に連れて帰った場合、どれくらい危険なのかわからなくて、脳外科、形成外科、いろいろな先生に意見を聞きましたが、前例がなくて先生方にもわからない。最終的に形成外科の先生が、個人的な意見として「よほど強い刺激を受けなければ大丈夫じゃないかな」と言ってくださって、退院することを決心しました。NICUに3か月、まぶたの手術のために小児病棟に移って2か月、その後も自宅に近い大学病院に転院して、生後7か月のときに退院しました。
結局、今に至っても病名はわかっていません。妊娠中は「産まれてみないとわからない」と言われていたのですが、産まれてもやっぱりわからない。日本でも海外でも同じ症例は見つかっていません。症例は参考になりますけれど、病名がわかったところで対症療法には変わらないので、病名を追求することはそんなに大事じゃないんじゃないかなと私たちは思っています。

── 退院に不安はありませんでしたか。
しほさん:めちゃくちゃ不安でしたね。退院して、ちゃんと守っていけるだろうかって。たんの吸引とか経管栄養とか、普段のお世話はそこまで難しくありません。でも、気管切開の管が抜けてしまったとか、酸素の数値が上がらないとか、何かあったときの練習はできないから、何度もシミュレーションをして。退院の2日前に「いま不安に思っていること」をA4の紙にワーッと書いて、病院の先生と看護師さんに見せて相談しました。
安全に過ごせるように、ベッドの位置や配線など、家の環境を整えて、育児グッズは一つひとつ手探りで調べたり試したりして、てんやわんやでした。一般的な育児グッズは使えないんですよ。人工呼吸器は6キロあって、それを乗せられるベビーカーがなかなか見つからなくて。
── 退院したときはどんな気持ちでしたか。
しほさん:ありがたいことに、退院の日はたくさんの方がサポートしてくださったんです。移動支援のスタッフ、訪問看護師さん、今後受けられる福祉サービスを判定してくださる区役所の方、都のスタッフも来てくださって、小さな赤ちゃんを囲んで、多いときで大人が15人もリビングにいました。
その方たちがみんな帰られて、玄関で見送って戻ってきたら、未来とパパがリビングでごろーんとしていたんです。未来は産まれてからずっと入院していたので、同じ目線で、並んで寝そべることってなかったんですよね。2人が寝転がっていて、パパはすごく幸せそうで、その光景を見られてすごくうれしかったです。不安は消えるわけじゃないけれど、こんなに幸せで温かい気持ちがあるならがんばってみよう。そう思えた自分にも安心しました。やることはいっぱいあるし、心配も尽きないんですけど、未来と一緒にいられるのは幸せです。