2018年に「R-1ぐらんぷり」で優勝し、一躍人気芸人となった濱田祐太郎さん。先天性の緑内障により左目は見えず、右目は部屋の明るさがわかる程度。大阪の繁華街では人とぶつかってしまうことも多いそうですが、濱田さんは「助けてもらわなくてもかまわない」と話します。その真意とは?(全2回中の1回)

手術で失明免れるも「朝起きて見えなくなってたらどうしよう」

── 濱田さんは左目が見えず、右目は光を感じる程度だそうですが、先天性の緑内障によるものだそうですね。

濱田祐太郎
芸歴12年、現在35歳の濱田さん

濱田さん:目の中の水分の循環のようなものが妨害されて、目の中に水が溜まった状態になり、眼圧が上がってしまうんです。その結果、目の奥にある神経などがダメージを受けて、視力が落ちる、視野が狭くなるといった症状が出ます。先天性緑内障は、幼少期がいちばん眼圧が安定しないらしく、僕の場合は赤ちゃんのころから1年半~2年おきに手術をしていました。はじめから見えなかったわけではなくて、小さいころは視力が0.03ぐらいあって、ゲームやテレビは画面に近づけばなんとなく見えていたんです。

 

── その当時は盲学校ではなく、普通の学校に通っていたんですよね。

 

濱田さん:はい。小学校と中学校は普通の学校でした。当時はまだ右目が少し見えていたので、友達とゲームをしたり、自転車に乗って出かけることもありました。

 

小学校3、4年生くらいから目が見えにくくなってきて、学校では黒板や教科書もあまり見えなくなりました。そのくらいのころから、地域のボランティア団体が作っている「拡大教科書」を使うようになり、担任の先生とは別の補助役の先生が横について見えない部分の説明をしてもらっていました。

 

── 当時のお気持ちはいかがでしたか。

 

濱田さん:特別ショックを受けたことはないですね。いつごろだったか、眼科の先生から「手術をすると視力がものすごく落ちるけど、手術をしなかったら、失明する可能性がある」と言われたんです。そのときに「失明するか視力が落ちるかなら、視力が落ちるほうを取ろう」と手術をすることになりました。手術が終わり麻酔が覚めて目を開けたら、思っていたよりずっと見えなくなっていて。でも、先生に事前に言われていたので「こういうことか」くらいの感じで、特に落ち込んだりはしませんでした。ただ、小学校4年生くらいで手術をしたときに、家に帰ってゲームが今までどおりできなくなっていたときはさすがにショックでしたね。ゲーム以外のものが見えなくなることに関しては絶望みたいなものはなかったです。

 

学校生活でも、実質的に困ることはあったはずなんですが、勉強がそんな好きじゃなかったので「困った」とは思っていなかったんですよね(笑)。僕が勉強好きな子どもだったらすごく苦労していたんでしょうけど、嫌いやから「見えなくても別にかまへんわ」ぐらいの気持ちでした。でも、中学生くらいのころ、寝る前に目を閉じて「目覚めたら自分の目がまったく見えなくなってたらどうしよう」みたいなことを考えたこともありました。

 

濱田祐太郎
さつまいものスイーツが大好物。いただきもののお菓子の箱には、目の見えない濱田さんのために「プリッツ」と点字で書いたシールが貼られていたそうで「心づかいがめっちゃうれしい」

── 不安で夜も眠れないほど?

 

濱田さん:いや、眠たいんですぐ寝ましたけど(笑)。

 

── 眠れたならよかったです(笑)。高校からは盲学校に通うようになったそうですね。

 

濱田さん:はい。見えなくなってきたことに伴って、高校生になってからは盲学校に通い始めました。地元の兵庫県の盲学校は、家から通うと片道2~3時間もかかるところにありました。なので、平日は学校の寄宿舎で過ごして、土日は実家に帰る、という生活をしていました。

 

── 高校生で実家を離れて暮らすのは、苦労が多かったのではないでしょうか。

 

濱田さん:実家を離れて暮らすことへの大変さや不安よりも、長時間の通学が嫌すぎて「そりゃもう寄宿舎入るやろ」って感じで(笑)。洗濯や掃除も自分でやるようになりましたが、家事の面では案外なんとかなりましたね。