11歳で児童養護施設に保護されるまで、義父たちから耐え難い虐待を受け、14歳のときには最愛の母親を病気で亡くしたブローハン聡さん。19歳で児童養護施設を卒業した後、困難な境遇にいる子どもや若者の支援者となり、最愛の人とも出会えたそうです。(全2回中の2回)
「モデルになって」母の願いを叶えようと
── 14歳で最愛のお母さまが他界され、気持ちが混乱するなかで自分が生きる意味を必死で見つけ、19歳で児童養護施設を巣立たれました。その後は、看護助手の仕事を経てモデルやタレントの活動をなさったそうですが、きっかけはどんなことだったのでしょうか。

ブローハン聡さん:まだ小さいころ、母に「いつかモデルになってね」とよく言われていたんです。当時は意味もわからずに「うん」と答えていた記憶があります。
11歳から児童養護施設で暮らすようになって、中高生のころには、雑誌のモデルオーディションに応募しようとしたこともあったんです。でも、児童養護施設の職員さんから、「あなたは虐待を受けているから、顔出しはよくない」と止められて、あきらめざるを得ませんでした。
── そうですか…。それは残念でした。
ブローハン聡さん:はい。児童養護施設を退所した後は、病院内の事務所で看護助手として働くようになりました。でも、1年ほど続けるうちに「自分にはどうしても合わない」と感じるようになり、悩んだ末に退職を決意しました。
そのころから、「今、自分はなんのために生きているんだろう?」「本当にやりたいことって何だったっけ?」と、繰り返し自分に問うようになって。そんなとき、子どものころ、母が「モデルになってみたら?」と、何度も言ってくれていたことを思い出したんです。当時は意味もわからず「うん」って答えていたけれど、亡くなった母の言葉は心の奥にずっと残っていたことを実感して、何かにつけ「母に喜んでもらいたい」「心配かけたくない、大丈夫だよって伝えたい」と思うようになりました。
実は、生きていた母にいつか自分の曲を聴かせたくて、小さなキーボードをこっそり練習していたこともあるんです。楽譜も読めなかったけれど、いつか自分の弾くピアノの音を届けたくて、耳で覚えて繰り返し弾いていました。そういう「表現したい気持ち」が、ずっと昔からあったんだと思います。

看護助手を辞めて携帯電話の販売員に転職したころ、同じ児童養護施設出身の先輩・古原靖久さんが俳優として活躍していて、彼の現場に同行するうちに、自然と芸能の世界に飛び込んでいました。20歳から26歳までは、モデルやタレント活動をしながら、携帯電話の販売員の仕事で生活を支えて、自分なりの表現の形を模索していました。