フィリピン人の母に育てられ、幼少期には義父からの壮絶な虐待にあったブローハン聡さん。現在は、一般社団法人コンパスナビの代表理事として、虐待被害に遭った若者たちを支援しています。そんなブローハン聡さんに、幼少期から14歳で最愛の母を亡くしそれを乗り越えるまでの道のりをお聞きしました。(全2回中の1回)

フィリピン人の母とボロアパート生活「電気や水道を止められ」

── ブローハン聡さんは幼少期、フィリピン人のお母さまと2人暮らしだったそうですね。

 

ブローハン聡

ブローハン聡さん:はい。4歳までは、父がたまに家に顔を出しに来てくれた記憶がおぼろげにあります。父は別に家族がいたので、母がほぼひとりで僕を育ててくれていました。でも、ものすごいボロアパートで、電気や水道、ガスがよく止められて。夜はロウソクを灯しながら薄暗い部屋の中でふたり過ごしていました。

 

僕は、11歳まで無戸籍、無国籍だったので、母は僕を育てるのにすごく苦労したと思います。まず、言葉の壁が高すぎて。身近にサポートしてくれる人はいなかったし、母は近所のフィリピンのコミュニティにもあまり顔を出していなかったみたいで…きっと周りの人に頼るのが怖かったんじゃないかな。特に行政は怖かったと思います。ビザの更新ひとつとっても、申請用紙が日本語で書かれているし。そういう日本ではごく当たり前のことが、外国人の母からすると、すごく難しかったんだろうなと思います。

 

ブローハン聡と両親
母親と父親と3人で誕生日のお祝い

ただ、生活は大変だったけど、母からは深い愛情をもらっていました。いつも僕に優しく温かな笑顔を向けてくれて、僕がどんな状況に置かれていても、「I love you, I miss you,I need you」って、「愛してるよ」という気持ちを伝えてくれました。

 

母から叱られたのはたった一度だけです。10歳のとき、辛い気持ちを伝えたかったのにうまく言えず、「なんで僕を産んだの!?」とぶつけたときでした。母は僕の頬を思いきりたたいて、次の瞬間には泣きながら、僕をギュッと抱きしめてくれました。

 

普段の母は、いつも掃除しながら機嫌よく歌っていましたね。映画『タイタニック』でセリーヌ・ディオンが歌っていた主題歌とか。すごく歌が上手な人でした。