事務所が違うのに…間寛平さんとの意外な関係
── 当時は何が支えになっていたのでしょうか?
波田さん:間寛平さんの存在は大きかったですね。「寛平さんの奥さまがたれ目好き」というところから交流が始まっているんです。奥さまが子どものときは萩本欽一さんが好きで、大人になって寛平さんと結婚して、『エンタの神様』を見てたれ目の僕を好きになってくれた。奥さまいわく「3H」といって、萩本、間、波田を応援してくれているんです(笑)。それがきっかけで、寛平師匠から「一緒にご飯食べよう」と誘っていただいて。
そこから寛平師匠や奥さまに本当にお世話になりました。僕に仕事がないときに、舞台やマラソン大会とか、僕を使えそうな仕事に全部呼んでくださったんです。「波田をよろしくな」ってプロデューサーとかに言ってくれるんですよ。僕は吉本興業の後輩でもないのに…。『ヘキサゴン』もわからないけど、寛平さんの口添えがあったのかもしれません。
そういうのもあって、うちの奥さんもあまり不安そうな顔はしていませんでした。「熟女クラブで働こうか」って言ったのは、本当にその1回だけ。あとは基本的にニコニコしていましたね。
── 間寛平さんとそんな交流があったのですね。
波田さん:寛平さんには相当食べさせてもらいました。当時は寛平さんから飯に行くたびに好きなものを食べさせてもらって、帰りに1万円のタクシー代をもらっていたんです。それで実際は300円で電車で帰って、残りは生活費にしていましたからね。「寛平貯金」と呼んで、それが子どものご飯代になっていました。寛平さんには本当に頭が上がらないし、死ぬまで感謝ですね。恩返しし尽くせないですけど、なんとか僕ができることがあればと思ってはいます。

── 温かい方なんですね。
波田さん:そうなんです。僕も困っている人を自分なりに助けられたら、寛平師匠に一歩近づけるかなという憧れの人です。うちの息子も、寛平さんみたいに優しい人になってほしいなと「寛」の字をもらっているんですよ。結婚式の仲人も、寛平師匠ご夫妻です。寛平師匠と奥さまがいなかったら僕は芸人を辞めていたかもしれない。
寛平師匠が2008年に2年かけて地球を一周するアースマラソンに参加したとき、師匠が乗っていたベンツをもらったんですよ。本人からそう言われたわけではないですが、「ベンツを維持できるぐらい頑張れよ」という意味だったと思うんです。
でも、結局途中で僕、手放しましたから。最低ですよね…。ベンツは保険料もガソリン代も高くて維持できなくて。いちおう師匠に聞きましたよ。「もう僕、維持するのは無理なんで、手放していいですか?」って。そしたら「好きにしいや」って言ってくれました。
本当に恩を仇で返しっぱなしなので、何とか恩返しするのがこれからの目標です。でも、寛平師匠ももう70代だから、10年後の目標にしちゃいけないですね。5年以内の目標です。
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芸人としてのどん底を経験し、すさんだ自分を変えたいと思うようになった波田陽区さん。福岡に移住し、ゼロから再出発することを決意します。初めはアルバイトをしながら家族を支えていた波田さんでしたが、今では地域密着型の営業で、以前よりも方の力を抜いて仕事を楽しんでいるそうです。
PROFILE 波田陽区さん
はたようく。1975年山口県下関市生まれ。ギターをかき鳴らしながらタレントや著名人にツッコみを入れる「ギター侍」ネタで2004年にブレイク。現在は福岡県を拠点に、テレビや営業など幅広く活動中。
取材/文・市岡ひかり 写真提供/波田陽区、ワタナベエンターテインメント