「着ボイス」の収入がいまだに入る
── ギター侍のネタも「エンタの神様」仕様に変わったのでしょうか?
波田さん:もともと「言うじゃな~い?」みたいなセクシーな感じじゃなくて、もうちょっとマイルドな言い方だったんですよ。「残念」はもっと小声でしたし。
30歳になる3か月前、というタイミングで番組収録に初めて行ったとき、カメラがバーッと20台ぐらいあって、お客さんが300人ぐらい入ってて。そんな状況でネタをするのは初めてだったんですよ。高揚感とプレッシャーで、気づいたら「言うじゃな~い?」って、あの言い方で言ってたんですよ。それがすごいウケて。それで、たぶん怖かったんでしょうね。大声で「残念っ!」って言ったらそれもウケて。
今でも不思議なんです。なんであんな言い方をしたのかもわからないし。何かがうまく重なったんでしょうね。リハと全然違う言い方になって、人生でいちばんウケたんですよ。

── そのときの感覚を覚えていますか?
波田さん:ふわふわしてました。「すごい…何これ」みたいな。それまで事務所の100人ぐらいのお客さんで、ちょいちょいはウケていましたけど、こんなにウケたことはなかったので。300人がボーンと沸騰したぐらいの不思議な感覚でした。
その日のうちに番組の総合演出の方がマネージャーを呼んで、「波田を毎週出そう。しばらくはエンタだけでやらせよう」って約束になったんですよ。僕は毎週エンタに出してもらう代わりに、エンタでしか見られない芸人になった。大人のみなさんがそう作ってくれたんです。僕としては素人に毛が生えたみたいなもんなんで、それがどういう意味を持つかもわからず、ただ「お願いします」という感じでした。
── ギャラが増えたのでは?
波田さん:最初のギャラが3万円だったことをよく覚えているんですけど、「やっとお笑いでお金稼いだ」ってすごくうれしくて。それまでは、前説の仕事でも5000円とかだったんですよ。それが10万、20万、40万と、9月ごろまで倍々に増えていくんです。いちばんうれしかったのが80万のときですね。1年前までは仕事なんていっさいなかったのに、マジか、と。通帳を見ながら酒飲んでましたもんね。
── 金銭感覚は狂わなかったですか?
波田さん:忙しすぎてお金を使う暇が全然なかったんです。貯金だけが増えていきました。10月からはCDや本、CMの仕事もするようになって。それで急に朝から夜中までずっと働く、みたいなスケジュールになりました。取材のかたが10人以上事務所に来て、回転寿司みたいにぐるぐる30分ずつ回っていくみたいな。僕は全部同じようなことを答えていたと思います。「何度同じことを聞くのよ」って思いながら。相当、態度が悪かったと思います。当時はわからなかったんです。取材してもらえることが、どれだけありがたいことなのかって。
── あまりにも急激な変化ですもんね。
波田さん:急に仕事が増えて大人たちが寄ってくるようになって、誰を信じていいかもわからなかったんです。でもお金はどんどん入ってくるし。自分の立場が冷静に見られなかった。CMとかは年契約なので額が大きくて、2800万円とかが1回で入ってきたんですよ。そのときが最高月収ですね。
あとは当時、着ボイスが流行っていて。僕も「朝ですから!残念!」みたいなのを30種類ぐらい録って、1つ100円くらいでダウンロード販売しているような時代で。その印税がすごかったんです。
── 着ボイス、懐かしいです(笑)。
波田さん:いまだにちょっとお金が入りますからね。着ボイス貯金です(笑)。本当に朝から夜まで働いていたので、2004年の10月から年末までの3か月で、一生分働いたと思いますね。
…
7年の下積み時代を経て、念願のブレイクを果たした波田陽区さん。待っていたのは、誰かを「斬る」新ネタを20~30人分考え続けるという、過酷な日々でした。人気タレントやアイドルに鋭いツッコミを入れるという芸風なだけに、山のように脅迫の手紙を受け取ったことも。しかし、波田陽区さんをいちばん苦しめたのは、ブームが去り世間から関心を失われたことだったそうです。
PROFILE 波田陽区さん
はた・ようく。1975年山口県下関市生まれ。ギターをかき鳴らしながらタレントや著名人にツッコみを入れる「ギター侍」ネタで2004年にブレイク。現在は福岡県を拠点に、テレビや営業など幅広く活動中。
取材/文・市岡ひかり 写真提供/波田陽区、ワタナベエンターテインメント