2004年に「ギター侍」のネタで一躍ブレイクしたお笑い芸人の波田陽区さん。当時一発屋と言われた芸人のなかでも特に最高月収が高かったとの噂も!そんな波田さんに、ブレイクまでの道のりや、今も入り続ける意外な“不労所得”について伺いました。(全4回中の1回)

29歳で『エンタの神様』とにかく売れるために言いなりに

── 芸人を志したきっかけを教えてください。

 

波田さん:小さいときから目立ちたがり屋ではありました。小学校のときは学級委員をやってましたし、中・高生のときは生徒会に入ってました。当時からワーキャー言われたい願望があったんです(笑)。小学校のときに『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)が流行っていて、たけしさんやさんまさんに夢中になって。中高生のころはダウンタウンさんに夢中でしたね。それで高校生のときに親に「卒業したらお笑い芸人になる」と言っていたんですよ。

 

本当は高卒でNSCに入りたかったんです。でもうちの親父が、自分が大学に行けなかったから、息子全員を大学に行かせたいという夢があったそうで。母ちゃんが「父ちゃんの夢を叶えてやってくれ」って。それで大学卒業後に上京して芸人になりました。

 

波田陽区
熊本学園大在学時代の貴重なお写真。このころ、奥さんと出会ったそう

── 上京後はどう過ごしていたのですか?

 

波田さん:毎日、ほぼお笑いのことしか考えてなかったです。「売れたい」しか考えていなかったので、深夜のファミリーマートでバイトして、日中は「お笑いの仕事につながらないかな」と、オーディションを受けたりライブに出たり。まあ29歳まで仕事はいっさい来なかったですけど(笑)。

 

── それで29歳のときに『エンタの神様』(日本テレビ系)で一気にブレイクしたわけですね。

 

波田さん:「お前、才能ないんだから、30歳になったら人生考えろ」と親父からもともと言われてたんですよ。僕も20代後半には自分に才能ないことを薄々…というかだいぶ気づいていて。上京してからいろんなお笑い芸人に出会って「僕よりおもしろい人いっぱいいるな」と凹んでいたんです。今は40~50歳まで芸人を続ける人もいますが、当時は30歳ぐらいで辞めて別の職に就く人が多かった。仲がよかった芸人仲間も、やめて板前になったり、ラーメン屋になったり。それで僕も「来年は30歳か。親父が言う通り、いろいろ考えなきゃな」と思っていたんですよね。

 

当時、『エンタの神様』が、開始当初は「総合エンターテインメント番組」としてアーティストなども出演していたのが、お笑いのネタ見せのみにシフトするというタイミングで。番組のスタッフさんが、まだ世に出ていない芸人を探していたんですよ。それで、たまたまうちの事務所が送ったビデオを見てくれたようで。僕もライブでギター侍のネタがちょこっとウケ始めたときで、運よく番組に出してもらえることになったんです。

 

── チャンス到来ですね…!

 

波田さん:エンタでは「ネタをエンタ用に変えてくれ」と言われることもあったりして。こだわりがある芸人さんは「そういう言い回しはできない」と出ない人もいたようです。でも、僕にとってはラストチャンスだったので「好きに変えてください」と。僕、本名は「ハダ」なんですけど、ディレクターさんから「『ハダ』は言いづらいから『ハタ』でいい?」って言われて、「もちろん!ハタにしてください」って。

 

── え、それまでは「はだようく」だったんですか…?

 

波田さん:そうなんです。そのときから「はたようく」になりました。僕としては来年やめなきゃいけないかなぐらいの気持ちだったので、「どうとでもしてください」と。