暴言を吐いた後の母の表情と言葉が今でも

── 高校でも野球部に入部されたのですね。
寺田さん:野球を続けたのは高校1年生までです。高校生になると、さすがに周囲との力の差を感じ、練習にもついていけなくなっていて、監督からはマネージャーにならないかと声をかけられていました。でも僕は選手にこだわっていたので、戦力外通告を受けた気分で…。だったら野球部を辞める、と決めて高校1年の冬に辞めました。当時は思春期でもあり、大好きな野球ができなくなったことで家の中でもけっこう荒れてしまい、学校を休んでふさぎこみました。
今でも忘れられないのが、母親にひどい言葉を投げつけてしまったことです。母が作ってくれたチャーハンをひっくり返し、「なんで僕をこんな体に産んだんだ!」と泣きながら言ってしまって。母は今まで見たことがないような悲しい顔をして僕を見つめ「ごめんね」と謝り、「足を切って交換できるものなら、母さんが代わってやりたい」と言いました。そのときの母の表情と言葉が忘れられません。
── お互いつらいですね…。
寺田さん:当時は自分の気持ちをどこにぶつけていいかわからなかったんだと思います。その後、受験期と重なったのですが、高校3年生の10月にアキレス健の手術をしました。脳性まひによって縮んでしまったアキレス腱を部分的に切り離し、伸ばした状態をギプスで固定し、収縮を改善する手術です。通常、脳性まひの患者は幼いときに同様の手術をするらしいのですが、小学校入学が1年遅れになることなどもあり、当時は見送ったそうです。結果的に高校3年生のタイミングで手術を受けたのは、野球に打ち込んでいた期間は受けられなかったことと、大学入学を前にして少しでも歩きやすくなれば、という期待を込めたからです。
幸い手術は成功しましたが、野球をやっていたことで足の筋繊維が強くなっていたため、術後の痛みが壮絶でした。1か月半は寝たきりになり、リハビリが始まると「1日50分でいい」と言われたものの、早く歩けるようになりたくて1日10時間の訓練を続けました。入院は4か月におよび、その間、受験勉強もしていたので、振り返るとかなりハードな生活をしていました。
おかげで歩けるようになり、「普通に歩くってこういうことか!」というのを体感しました。それまではかかとが足につかないので、足を引きずるようにして歩き、10m進むだけで息がきれ、足が痛くなって休憩して、といった歩行具合でした。それが1km、2km歩いても平気になり、受験の結果も関西学院大学に合格して大学生活はバラ色だと思いました。でも、うまく歩けたのは退院後3か月だけでした。
── 以前の歩き方に戻ったということですか?
寺田さん:はい。結局、脳性まひは脳神経の病気なので、足を手術しても脳から出す指令は変わらない部分があり「アキレス腱が再短縮する可能性もある」とは聞いていたのですが、その通りになってしまいました…。大学入学後しばらくすると、またつま先立ちでしか歩けないようになり、10m進めば息をきらすような歩き方に逆戻りして、ものすごくショックを受けました。術後は眠れないほど足の痛みがひどく、あんなにリハビリも頑張ってつらい思いをしたのに…という反動も大きかったです。