お笑い芸人、歌舞伎町ホスト、日本一周、YouTuberと、車椅子姿で常に新しい挑戦を続ける寺田ユースケさん。脳性まひのため生まれつき手足が不自由ですが、小学校から高校までは野球に打ち込む日々。自分の足で歩くことにこだわり続けたなか、車椅子との出会いが人生の転機となります。(全3回中の1回)
スポーツ万能の両親は息子が脳性まひと告げられ

── 2歳のときに脳性まひが発覚したとのこと。当時のことを教えてください。
寺田さん:僕自身は記憶がないので母から聞いた話になるのですが、最初に僕の歩き方に違和感を覚えたのは祖母だそうです。1歳を過ぎて歩き始めた僕を見て「ユースケの歩き方、ちょっとおかしいんじゃない?」と母に伝えたと聞きました。ただ、わが家は両親ともに体育大学出身でずっとスポーツに取り組んでいたので、「生まれてきた子どもはスポーツ万能に違いない、障がいなんてあるわけない」という思いがあって、すぐには病院を受診しなかったそうなんです。でも2歳児健診のときに医師から「息子さんは、脳性まひです」とはっきり告げられ、母は大きなショックを受けました。「どうしてうちの子が」という思いが強かったそうです。
── おばあさんは、ほかのお孫さんと比べてユースケさんの歩き方に違和感があったのでしょうか。
寺田さん:それもあると思いますが、1歳を過ぎて歩き始めたものの、つま先立ちで歩いていたため、おかしいと感じたそうです。脳性まひは、妊娠中や生後1か月程度までに、何らかの理由で脳が損傷を受けたことが原因で起こる障がいのことです。障がいが現れる部位や程度はさまざまですが、僕の場合は首から下、両手足に障がいがあります。
「俺らが代わりに走る」友達の後押しで野球部に

── ご自身が脳性まひと認識されて以降、幼少期で印象に残っている思い出を教えてください。
寺田さん:少年野球のことがいちばん印象に残っています。小学生のころはテレビで野球中継を見るのが好きで、多くの子どもと同じようにプロ野球選手に憧れていました。でも僕は、成長して筋肉が発達するにつれ足の動きがどんどん悪くなって、つま先立ちが目立つようになっていたので、同級生と同じように走ることはできません。体育の時間や友達と一緒に遊ぶとき、周囲に迷惑がかかる、自分の走り方が恥ずかしいと感じるようになっていました。だから小学4年生でクラブ活動を選ぶ際、本当は野球クラブに入りたかったけれど、どこにも入らないと決めたんです。
でも、それを知った友人たちが「寺田が走れないなら、俺らが代わりに走るから!」と言って誘ってくれて、野球クラブに入ることができました。速く走ることも遠くまで球を投げることもできませんでしたが、友達と一緒に野球ができる喜びや楽しみが大きかったです。
── 素敵なお友達ですね。そのまま小学校を卒業するまで野球を続けたのですか?
寺田さん:そうです。でも、小学5年生になってから、仲のいい友達が地元の強豪野球チームにも所属するようになり、僕もどうしてもそこに入りたくなって…。こっそり強豪チームの練習を何度も見に行った末に、意を決して両親に入団したいと伝えました。さすがに反対されるかと思ったのですが、母は「わかった。一緒に練習を見に行って、監督さんにお話ししよう」と言ってくれたので驚きました。父も「障がいを理由に途中で投げ出さず、卒団まで続けなさい」という反応だったんです。後で聞いたら、母が事前に監督さんに僕の障がいについて説明しておいてくれたらしく、そのおかげでスムーズに入団できました。
小学6年生のときには公式戦にスタメンで出場する機会をもらいました。周囲の理解と応援には感謝しかないですね。当時はまだ、今みたいに多様性を受け入れようという時代ではなかったので。その後、高校生になるまで楽しく野球を続けることができました。運動を続けるうえで、時間がかかっても自分の足で歩くことがこだわりでした。