脳神経外科医とファッションデザイナーの二刀流で活躍するDrまあやさん。輝かしい経歴を持つ彼女の幼少期はかなり特殊なもので。母親との関係は今も断絶状態だと言います。(全3回中の1回)

母親と一緒に暮らしたいとはみじんも思わない

Drまあや
Drまあやさんがデザインした洋服。絵柄はCTの断面図をイメージした

── 「脳神経外科医」「ファッションデザイナー」という華麗な肩書きから順風満帆な人生を想像しがちですが、実は幼少期から親との関係に苦しんでこられたと伺いました。

 

Drまあやさん:いわゆる一般的な温かい家庭とはかなりかけ離れていたと思います。ジャズミュージシャンをしていた両親は仲が悪く、毎日ケンカばかり。母はヒステリックな人で、幼い私が話しかけると「今話しかけないで!」と突然キレたりするので、いつも顔色を伺いながら過ごしていました。母の機嫌に振り回されるのがだんだん嫌になり「もう一緒にいたくない…」と思っていたんです。そこで岩手に住む祖母が遊びに来たときに「おばあちゃんのところに連れて行って!」と頼みこみました。それが3歳くらいのときですね。

 

── 3歳でそんな思いを。自我がしっかりした子だったのですね。

 

Drまあやさん:祖母は当初「子どもだからそのうち母親が恋しくなるだろう」と2週間だけ預かるつもりだったようですが、私は「絶対戻りたくない!」と断固拒否。結局、幼稚園の間だけということで祖父母と暮らし始めたのですが、その間に両親が離婚し、そのまま岩手で生活することになりました。母は「本人がそう言うなら仕方ない」と、私を引き取ろうとはしませんでした。自己主張が強く、自分に従わない相手を許せないタイプでしたから、合わない子どもと過ごすより、自由でいる方が気楽だと思ったのでしょう。父はおとなしく、害のない人でしたが、私を迎えに来ることはありませんでした。その後、たまに母から生存確認のような電話がかかってくることはありましたが、「一緒に暮らしたい」とは言われなかったし、私もそういう気持ちは微塵もありませんでした。以来、母との関係は、ほぼ断絶状態です。

 

── 育ての親である、おばあさまも、かなり厳しい人だったとか。

 

Drまあやさん:祖母はすごくリアリストで「世の中、決して甘くない」と言われて育ちました。あとから考えると、孤独な私を不憫に思い、自分がいなくなった後、ひとりでも強く生きていけるようにという気持ちが強かったんだと思います。小学校にあがるときには「親のいないお前は絶対いじめられるから、目立たないように教室の端っこにいなさい」とか「友達なんか作らなくていい。何の意味もないし、むしろ友達はお前といると恥ずかしいと思うだろうから」と言われていました。

 

── 子どもにかける言葉にしては、かなりシビアですよね。成長とともに言葉の真意がわかるようになったとはいえ、当時のまあやさんには、どんなふうに響いていたのでしょう?傷ついたり、反発する気持ちはありませんでしたか?

 

Drまあやさん:ショックとか傷つくという気持ちはあんまりなくて。むしろ厳しい現実に直面させられたことで、自分がどう立ち回れば嫌な思いをせずに生きられるだろうかと考えるようになりました。そしてたどり着いた答えが「おもしろい人になればいい」。おもしろい人になれば、みんなに受け入れてもらえるし、居場所がありますから。

 

医師になったのも「お前はブサイクで結婚できないだろうから、手に職を持って生きていきなさい」と、祖母から繰り返し言われていたことが影響しています。最初は反発心がありましたが、愛読していた女性週刊誌でしばしば目にする芸能人の転落劇に「成功している人たちですら生きていくのはこんなに大変なのか…」と思い知らされて。かわいさという武器も、才能もない自分が世の中で生きていくには、せめて勉強だけは頑張って路頭に迷わないようにしなくちゃと考えたんです。祖父が医者だったことが影響し、中1のときに「私も医者になる」と決意しました。それが、今に至る原点になっていますね。