育てられない子を産む母の痛み

── 受け入れてくれたクリニックでは、どのような出産をされましたか?
志賀さん:出産の数日前から、病院の案内図にはない特別室に入院しました。院長先生が「志賀さんの前にこの部屋にいたのは、高校生のお母さんでね。赤ちゃんの命を守り、将来のために、出産してすぐに養子として託してくれたんだ」と、特別養子縁組について教えてくれたんです。
出産当日。その日は出産が多く、隣の陣痛室からはハッピーバースデーの歌が聞こえてきました。陣痛の痛みに耐えながら「女の子は他人に託す子をどんな気持ちで産んだんだろう」「産まれてくる赤ちゃんはみんな等しく幸せになってほしい」とぼんやり考えてました。
── 夫のまさしさんが当時の様子を手紙に残してらっしゃるとか。
志賀さん:手紙にはこう書いてありました。
「妻は死産のお産のときにまったく泣きませんでした。その日はお産が何件もあって、陣痛室は入れ替わり立ち替わり出産を迎える妊婦の方たちがいました。妻もその一人だったのですが、なかなか破水が始まらず、誕生を迎えた赤ちゃんの泣き声と陣痛に苦しむ妊婦さんの絶叫が聞こえるなか、妻は静かに陣痛に耐えていました。私はほかのお母さんみたいに元気な赤ちゃんが産めないから、この痛みはダメな母としての痛みだと言っていました。痛みに耐える妻はどこか毅然としていて、『私が最期に母としてできることは、かわいい赤ちゃんを産むことだけだから』と、ぼくの手を握りながら繰り返していました。なぜならぼくたちの子どもは、生まれた直後すぐに死亡届を役所に出さないといけません。翌日に赤ちゃんはすぐ火葬しなければならず、ぼくたち家族が3人で一緒にいられる時間は、出産の瞬間とその後に病室で過ごすわずかなときだけで、ほとんどありません。
出産後、赤ちゃんを抱き、わが子を大切そうに見つめる妻は優しい笑顔でした。でもそのときの妻の下半身は、残った胎盤を掻き出す処置のため血だらけでした。処置は激痛で、妻の両足は痛みに耐えきれず小刻みに震えていたので、助産師さんに押さえられていました。
男のぼくにとって出産があまりに衝撃的で、妻が今まで何度も不妊治療の処置が痛いと言っていたのに聞き流していたことを後悔しました。退院する際、病院で関わってくれた助産師さんたちに明るくお礼を言う妻の姿はまさしく母親でした。そんな妻をぼくは、誇りに思います」
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不妊治療で授かったわが子をお腹で亡くしてしまった志賀さん。退院後も気持ちが塞ぎ込む日々が続きましたが、亡くした赤ちゃん同じ染色体異常の子どもの写真展に足を運んだことがひとつの転機となり、里親として生後まもない男の子を家族に迎え入れて今の生活に至っています。
取材・文/松永怜 写真提供/志賀志穂