30代の頃から6年にわたる不妊治療の末、妊娠した志賀志穂さん。しかし、わが子は産声をあげることなく、42歳のときにお腹の中で亡くなってしまい── 。(全4回中の1回)
つわりもあるし、胸も張っているのに

── 24歳で結婚。30歳になっても妊娠の兆しがなく、病院で一般的な不妊検査を夫婦で受診されます。しかし、どちらも「異常なし」と言われてしまい、その後も通院を継続。35歳になっても授からなかったので、高度の不妊治療専門病院に転院したそうですね。
志賀さん:はい。より精密な検査を受けたら、体外受精しか選択肢がないことがわかりました。仕事を続けながら服薬とホルモン注射を打つために、月に何回も病院に通って。私たちの場合は1クールに80〜100万円かかり、たび重なる通院で仕事も思うようにできなかったので、精神的な負担に加え、経済的な負担ものしかかってきました。心身ともに追い詰められながら高度な治療を行いましたが、30代から合わせて6年で不妊治療を終えました。
── なぜ、このタイミングで不妊治療に終止符をうつことになったのでしょうか。
志賀さん:私たちが決断したわけでありません。4回目の体外受精では妊娠することができて、夫婦で涙を流して喜びました。しかし、出産予定の総合病院に通い始めたころに胎児にむくみがあり、染色体異常と宣告されたのです。
私は精神保健福祉士で障がい者支援をしてきたこともあって、障がいがあっても産むと決めていました。同時に、障がいのある子どもを育てていく大変な現実も知っていたため、詳細な診断を受け、社会保障制度などを調べ、少しでも早く子どもを育てていく準備をしなければと考えていたんです。でも、産婦人科の医師は母親である私の精神的負担を考慮してか、胎児の深刻な状況を告げることを避けていて。治療法はないと判断されて、通常の妊婦検診と同様の経過観察のみ行うことになりました。
私はすでにつわりもあって、胸も張っていたし、お腹に命の温かみも感じていたんです。わが子の命をみずから終わりにするなんてできない。子どもが受けられる医療はないか、必死に探しました。
── かなりつらい状況かと想像します。
志賀さん:お腹の子どもの命を救いたい一心で、子どもの病状を調べてもらうために、胎児エコーの出生前診断を受けました。そこで、重篤な18トリソミー(常染色体異数性の染色体異常症)であることが判明。出生前診断を受けるために遺伝カウンセリングを受けた際、遺伝カウンセラーの方に「この子を治療できるような、大きな病院への紹介状を書いてほしい」と必死にお願いしたんです。
しかし、遺伝カウンセラーから「あなたの子どもより、助かる見込みのあるたくさんの子どもたちが治療を待っています。出産しても、あなたの子どもが1年以上生きる見込みは10%にも満たない。あなたの子どもは、治療に並ぶ子どもたちの列からはずれなさい」と言われてしまって。子どもの命を救う厳しい現実を知ったうえでの意見だったのかと思います。それでも、エコーでは元気に動くわが子の命を誰にも救えないという絶望に、母親として身が引き裂かれる思いのうちに、私のお腹の中で亡くなってしまいました。
死産の場合も、生きている子どもと同じように母親がいきんで出産します。しかしながら、出産には夫は立ち会えないこと。出産翌日には火葬となるものの、母体の安全を考えて母親の私は参列できないことを医師から説明されました。夫はそれに納得できず、亡くなっていてもちゃんと赤ちゃんとして扱ってくれる病院を必死に探して、受け入れてくれることになったんです。