昭和の巨匠・つかこうへいさんを父にもち、元宝塚歌劇団雪組の娘役トップを務めた愛原実花さん。自身の退団公演の幕が上がる10分前に父が亡くなった報告を受けたそうですが、舞台をやりきれたのは父からの最期の教えがあったそうで── 。(全2回中の1回)
実力社会、シビアに評価された宝塚時代

── 元宝塚歌劇団雪組の娘役トップで、現在は舞台を中心に活躍する愛原実花さん。日本の現代演劇に大きな影響を与えた昭和の巨匠・つかこうへいさんのひとり娘でもあります。お父さんは家庭ではどんな方だったのでしょうか?
愛原さん:世間的には、厳しいとか怖いといったイメージがありますが、家では穏やかでとても優しい父でした。子どものころから怒られた記憶が1度もないんです。よく遊んでもらいましたし、学校行事やイベントなどもしょっちゅう参加してくれました。父は、とても本を大切にする人で、移動中や旅行中でも常に本を読んでいた思い出があります。私にも「読書をしなさい、見聞を広げなさい」と常に言っていましたね。そのせいか、今でも本の匂いを嗅ぐと安心するんです。寝るときには、絵本の読み聞かせをしてくれたりもしたのですが、話を創作したり、絵本をアレンジしたりと、かなり独特でしたね。『赤ずきん』の童話を読むときも、狼の鳴き声をやたらとリアルに表現したりするので、怖くなって眠れなくなることも(笑)。
── 読み聞かせのレベルを超えていますね。なんと贅沢なと、思いますが、寝かしつけとしては失敗かと(笑)。
愛原さん:逆に目が冴えてしまいました(笑)。とにかく私には甘かったですね。父は、家では仕事の話をほとんどせず、稽古場や楽屋にも連れて行ってもらったことはありませんでした。初めて父の公演に行ったのは6歳のとき。『熱海殺人事件』という作品を観たのですが、すごくショックを受けたことを覚えています。過激なセリフが飛び交う舞台、いきなり大きな銃声の音が鳴り響いたかと思えば、花束を鞭のようにして人を殴りつける暴力的なシーンもあって、普段の優しい父からはまったく想像できない激しさに衝撃を受けました。子どもだった私には、父の表現する演出が理解できず、なんだかとても恐ろしいものに感じたんです。宝塚のお芝居に惹かれたのも、その反動からかもしれませんね。
── どんな出会いだったのでしょう。
愛原さん:中学3年生のとき、通っていた中高一貫校の文化祭で校内の「宝塚クラブ」のお芝居を観たのですが「父の舞台と違って、なんて安心して観られる優しい世界なんだろう」と魅了されたんです。そこから宝塚歌劇団のお芝居を観るようになり、すっかりハマってしまって。「宝塚を目指したい」と父に告げたら、絶句していました。
── お父さんは反対されていたのですか?
愛原さん:反対こそしませんでしたが、役者の道にはあまり進んでほしくなかったようで、「役者ではなく、作る側ではダメなのか」と聞かれました。宝塚に入るには、親元を離れて寮生活を送ることになるので、親として心配だったのでしょう。娘が家を出るのも寂しかったのだと思います。その後、1年ほどレッスンを積み、高校1年生のときに宝塚音楽学校を受験し、宝塚に入りました。
父は、私のやることに対して反対したり「こうしなさい」と指示したことは一度もありませんでしたし、いつも私の選択を尊重してくれ「とにかく1回やってみなさい」と見守ってくれました。
── お父さんに演出のアドバイスを受けることもあったのでしょうか。
愛原さん:まったくなかったですね。父は歴史ある宝塚というエンターテインメントに敬意を持っていたので、宝塚に預けたからにはいっさいの口出しはしないと決めていたようです。「演出家の方の教えをよく聞いて、その方針に従いなさい」と言われていました。
── 偉大な親を持つ二世の方から、「努力をしても『親の七光り』や『コネ』といったレッテルがつけられ、あたかも親の存在がキャリアに影響しているかのように言われてしまう」という声をよく聞きます。愛原さんご自身は、そうしたことを感じた経験はありますか?
愛原さん:宝塚時代では、そういったことを感じたことはなかったですね。すべて成績によって順位や序列が明確に決まっていく完全な実力社会なので、親が誰であろうと、シビアに評価されます。規律正しい集団生活のなか、あらゆる技術を身につけるためにレッスンに明け暮れる厳しい環境だったので、毎日がサバイバルのような状態で、気にしている余裕はまったくありませんでした。
私自身、いわゆるエリート街道を歩んできたわけではないんです。下級生のころは通行人のようなセリフのない役ばかり。大きな役をもらう同期を見て羨ましいと思うことも多かったです。
そうしたなかで、娘役トップをやらせていただくことができたのは、幼少期からミュージカルなどの舞台に連れて行ってくれたり、クラシックバレエに通わせてもらうなど親が与えてくれた環境が基盤を作ってくれたと思っています。役者として活動するなかで、あらためて感謝の思いが強くなりました。