病気を自然に受け入れられたのは母のおかげ
── お母さまがつきっきりだったそうですが、当時、お仕事などはどうされていたのでしょうか。
ほしのさん:僕の入院期間は、お休みをもらって看病してくれていました。母は、僕が生まれる前から看護師をしていて、今年、定年退職を迎えました。当時、僕の入院先とは別の病院で働いていて、母の職場の方々は医療従事者だから事情がわかるのか、すごく理解してくれていたみたいです。なので、入院期間は快くお休みをとらせてくれたそうです。
── それでも1、2か月休むのは仕事の調整も大変だったのでは…。
ほしのさん:そのときの僕は、まだ小さかったのでなんとも思っていませんでした。でも、大人になって自分も働くようになると、それだけの休みを母がとってくれたことも職場の方がとらせてくれたことも、ありがたいことだと改めて実感しました。
── お母さま以外のご家族はどのようなサポートをしてくれていましたか?
ほしのさん:実は家庭環境がちょっと複雑で、入院を繰り返していた時期は実質、母1人子1人という暮らしだったんです。なので、母が全面サポートという感じでした。
僕が1歳くらいのときに両親が離婚して、今の父とは小学校中学年ぐらいまで会っていませんでした。兄弟は、兄が1人と弟が2人いるんですけど、全員片親しか血が繋がっていないんです。弟の1人は父方だったこともあって当時はほとんど会っていなくて、いちばん下の弟も13歳離れているので…。
── 大変な状況のなか、おふたりで頑張ったのですね。そんなほしのさんは小さいころどんなお子さんだったのですか?
ほしのさん:意外とアウトドアで活発な子でした。外に遊びに行くのが好きで、放課後に近所の友だちと山を探検したり、家の中でもテレビを見て笑ったり、ときどき歌ったりと、とにかく元気だったみたいです。
── かなりアクティブですね! そのときには、すでに口唇口蓋裂のことはご自身で認識していましたか?
ほしのさん:はい。幼稚園くらいのときに、母から「こういう病気だから、何回も入院や手術をしているんだよ」と、きちんと伝えてもらったので、自分なりに理解はしていたと思います。看護師だったからか、母の説明もわかりやすくて。抵抗感もなく自然と受け入れることができたのは、母のおかげです。
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献身的で前向きな母のおかげで、8度にわたる手術と入院生活をのりきり、自然に病気を受け入れたほしのさん。とはいえ、見た目にも症状が表れるため、小学生になったころからはつらい思いをすることもあったそうです。
PROFILE ほしのディスコさん
ほしの・でぃすこ。1989年10月23日生まれ。群馬県利根郡白沢村(現・沼田市)出身。2014年にお笑いコンビ「パーパー」を結成。2017年にキングオブコントで、2020年には『R-1ぐらんぷり』で決勝に進出。2022年には歌手としてメジャーデビューを果たす。
取材・文/髙木章圭 写真提供/ほしのディスコ