「自分だけ東京に行くわけにはいかない」と

── ご両親はご無事だったんでしょうか?

 

ゴー☆ジャスさん:実家のある場所はさいわい津波の心配がなく、家の倒壊は免れました。ただ、建物はひび割れ、部屋の中は散乱してぐちゃぐちゃに。余震が続いていたので、片づけたくても片づけられなかったようです。ただ、両親が無事だと聞き、ホッとしたのは覚えています。両親はとても厳格なタイプで、子どもの前では常に気丈にふるまっていました。実家がある街は1週間以上、断水していたのですが、当時は「心配しなくて大丈夫だ」、僕を不安にさせないようにしてくれていて。だから、実際どんな状況だったのか、よくわからなかったんです。

 

── その後はどのように過ごされていたんでしょうか。

 

ゴー☆ジャスさん:両親が無事だとわかり安心したのですが、今度は福島第1原発のニュースが次々に報じられて。最初は半径10キロ以内に屋内避難の指示が出されました。実家のある場所は避難区域ではなかったものの、当時は知識や正確な情報がなく、ニュースを見るたびに不安だけが募っていきました。その後、避難区域が広がっていったので、iPhoneのアプリで原発から実家までの距離を測ったりしました。避難区域じゃないと言われても、気が気でなかったですね。両親には「僕や兄が東京にいるから、どちらかの家に来たほうがいい」と提案したんです。でも父親は当時、団地の自治会長をしていたので「俺だけいなくなるわけにはいかない」と、上京はかたくなに拒んでいました。

 

── 遠方の親戚の家などに一時避難する方がいらっしゃいましたね。

 

ゴー☆ジャスさん:僕も「今は、そんなこと言ってる場合じゃないよ」と父親に言ったのですが、何を言っても聞かず。「本当に危ないと思ったら、そちらに逃げるから」と言って、そのままいわき市にいました。電話をして「大丈夫?」と聞いても、不安にさせないように「大丈夫」しか言わないし、情報が錯綜していた当時はよけいに心配でした。

 

── しばらくしたのち、福島を訪れる機会があったそうですね。

 

ゴー☆ジャスさん:震災から1か月ほどたったころ、いわき市の駅前にある「ラトブ」という商業施設の方から「お店が営業できず、人もいなくなって、いわき市がゴーストタウンのようになってしまった。イベントに来てほしい」という依頼を受けたんです。それで、同じいわき市出身のアルコ&ピースと、相撲芸人のあかつの4人でいわき市に行きました。

当たり前にあるものが突然なくなることを知った

── 実際に行かれて、街はどのような状況だったのでしょうか。

 

ゴー☆ジャスさん:歩道やブロック塀がぐちゃぐちゃになり、倒壊したブルーシートがかけられた建物が至るところにありました。イベント会場になった商業施設の「ラトブ」は、建物自体は壊れていませんでしたが、イベントホールの天井がごっそり落ちていました。

 

── 地元でのライブはどうでしたか?

 

ゴー☆ジャスさん:駅前にあるお店はほとんど閉まっていて、街に人はいなかったのですが、イベントには地元の方が200人くらい来てくださり、とても盛り上がりました。僕自身、できることがあれば何かやりたいという思いはずっとあったんですが、何をしていいのかわからない状況でした。だから連絡をいただいて、地元の方の前で、自分ができる「お笑いライブ」をできたことは本当によかったです。

 

── ご両親にも会えて安心しましたね。

 

ゴー☆ジャスさん:そうですね。やはり実家に戻ってホッとしました。地元のためにできることをと思ってイベントに行かせていただいたのですが、僕が地元の方の前でライブをさせてもらったことで逆に力をもらいました。暗いニュースが続くなかで、みなさんの気持ちが少しでも晴れる瞬間を作れたなら、という気持ちでした。

 

ゴー☆ジャス
地元、いわき市にて