小児科医の経験を生かし、「ママ友ドクター」として発達特性がある子どもの子育てに悩むママたちの支援を行う西村佑美さん。お姉さんが最重度の自閉症だったことが人生に大きな影響を与えたそうです。(全2回中の1回)

しゃべれない姉とは言葉以外で交流するのが当たり前だった

ママ友ドクター・西村佑美
ママ友ドクター・西村佑美さん

── 西村さんは三人姉弟で育ち、お姉さまが最重度の自閉症だそうですね。

 

西村さん:はい。自閉症の人が持つ特徴的な症状はある程度共通なのですが、その程度は人によってさまざま。会話はできるけど空気が読みにくい人もいれば、会話が成り立たない人もいます。約10年前までは「アスペルガー症候群」という名称があり、イーロン・マスクなどがこれを公表していますが、今はアスペルガーも含めて「自閉症スペクトラム症」という名前になっています。

 

姉は生まれつき知的障害を合併している自閉症で、会話が成り立たない、手が出てしまう、かなりこだわりが強いといった特徴があります。赤ちゃんのときの姉はおとなしく、人と目が合わないような子だったそうです。歩きはじめると多動で大人の指示が聞けず、偏食でこだわりが強く、しゃべるよりも手が出てしまう状態だったので、私が生まれたすぐあとに典型的な自閉症と診断されたようです。 

 

── どんなご家庭でしたか? 

 

西村さん:母は、姉はいつかよくなるだろう、成長すれば変わるだろう、と楽観視していたようです。勉強熱心な人でもあったので、当時からモンテッソーリ教育の知識なども得ていて、子どもにいいと思うことはいろいろと試していたと言っていました。幼い私をおんぶしながら、姉の受診やリハビリ施設へ通っていました。父は勤務医で多忙だったので、子育てはワンオペ状態でしたし、大変だったようです。その中でも気持ちが落ち込み過ぎないように、前向きでいることを心がけていたんだと思います。家庭が暗いという雰囲気を感じたことはありませんでした。

 

そして、部屋がきれいで片づいていることより、子どもが笑顔で楽しむことを優先してくれていました。「おままごとをしたい」と言えば本物の鍋を持ってくるなど、子どもと一緒に遊びを考えて楽しんでくれていました。食事も、近所のラーメン屋さんから出前を取って食べることがありました。今でこそデリバリーは一般的ですが、当時は地方の専業主婦家庭で出前を取るなんて抵抗があることだったようなので、既存の価値観に縛られない母だからこそできたことなのかもしれません。なので私も「女性だからこうしなさい」と言われたことはほとんどないです。

 

西村佑美と家族
母と姉と弟と。中央が西村さん

── きょうだい児としてはどう感じていたのですか?

 

西村さん:私は妹なので、生まれた瞬間からしゃべれない、自由に走り回り大声を出してしまう姉がいて、それが当たり前だったんです。しゃべれない姉とは言葉ではないコミュニケーションを取っていましたし、大人から見たらよくわからなくても、子ども同士楽しく過ごしていました。姉がしゃべれないことのストレスから、手を出すような形で私に向くこともあったのですが、それはそれで姉妹げんかとして受け止めていて、障害を持った姉がいることが恥ずかしいと思ったことは一度もないんです。それは弟も同様です。

 

母は、私と弟に対して「お姉ちゃんはあなたたちのぶんまで障害を背負って先に生まれてきてくれたんだから、感謝しなくちゃね」とことあるごとに言っていたので、姉に対する感謝と、姉ができないことを自分ができるのに少し申し訳なさも感じて生きてきました。
ただ、自分の後から障害を持った子が生まれてきているきょうだい児は、親と同じ感覚で「面倒見なくちゃ」「お世話しなくちゃ」という意識が芽生えるようです。さまざまな方にヒアリングをしたうえで、きょうだい児支援もいずれ取り組みたい課題ではあります。