未曾有の大災害も14年がたち、風化しつつある面があります。いっぽうで14年間、歌声を届け続ける音無美紀子さんだからこそ知る被災地の現状がありました。ニュースになりにくい被災地のいまに耳を傾けます。(全4回中の4回)
ふさぎ込んでいた被災者の方も歌い始めたら…
── みんなで歌を歌うことで、被災地の皆さんを少しでも元気づけることができれば…。そんな思いから、同じ志を持つ芸能界の仲間たちとともに「歌声喫茶」を起ち上げ、 14年間活動を続けてこられました。当初、被災地の皆さんの反応はいかがでしたか?

音無さん:「歌ったからって元気になれるわけないじゃない…」とふさぎ込み、なかなか仮設住宅から出てこない方も当初はいらっしゃいました。でも、集会所から歌声が響きだすと、遠巻きに眺めていて。「よろしければ、こちらで一緒に歌いませんか?どうぞ入ってください」と言ったら、いちばん大きな声で歌い始め、私たちもその姿を見て勇気をもらいましたね。
歌うことで少しでも元気になったり、笑顔になる時間が増えるいっぽうで、感情があふれだして、ずっと下を向きっぱなしで泣いている方もいらっしゃいました。でも、最後には顔を上げて「来てくれてありがとう」と言われ、思わず涙がこぼれました。震災から間もない時期は、近所の人たちと離れ離れになり、どこに誰が避難したのかわからない状況でもありました。でも、歌声喫茶のイベントに参加し、「ここの仮設にいたのね!」と再会を喜ぶ姿も。少しでも皆さんの役に立てたことが嬉しかったですね。
── 被災地の皆さんが交流する場にもなっていたのですね。
音無さん:宮城県の七ヶ浜町で歌声喫茶を行ったときは、場所がなくて、海辺の丘にある広場にテントを張って急遽、会場としたのですが、懐かしい歌があたりに響きだすと、参加者がだんだん増えて、最後はテントが人でいっぱいに。近くにがれきの山が残る中、海を見ながら、「兎追いし、かの山~」とみんなで『ふるさと』を歌いました。「どんな厳しい状況になろうとも、やっぱりここが私たちのふるさとなんだよね…」と涙を流しながらおっしゃる姿に、胸が熱くなりました。

── いろんな想いが交錯しますね。
音無さん:私自身の気持ちにも変化がありました。当時、「絆」という言葉が飛び交っていましたが、当初は、「あまり絆、絆、と言いすぎるのもどうなんだろう…」と思っていたんです。でも、皆さんと一緒に歌ったり、お話をして想いを共有したりする中で私自身「絆」というものを強く感じるようになりました。実際に、歌声喫茶の活動メンバーとも心の距離がぐっと縮まり、いまではすごく仲良しですし、わが家は家族全員で参加するので、家族の絆も深まりましたね。