障害のある兄弟姉妹がいる人のことを「きょうだい児」と呼ぶことをご存じでしょうか。藤木和子さんは、耳の聞こえない弟をもつ「きょうだい児」の立場の弁護士として、自身の経験や考えを伝えたいと、積極的に発信しています。親や周囲からのプレッシャーに悩んだという子ども時代について聞きました。(全3回中の1回)

弟に障害があっても「きょうだいは対等」と思っていた

幼少期の藤木和子さん
3歳のころの藤木さん

── 弟さんの聴覚障害は生まれてすぐに判明したのでしょうか。

 

藤木さん:弟が3歳半のときに、耳が聞こえないことがはっきりわかりました。私が5歳のときでした。弟は、大きな物音は多少聞こえるのですが、人が話す言葉は聞こえない。1対1だと、口の形や表情、文脈とかで通じる部分もありますけど、学校の授業で先生が話すことは、言葉として認識できない感じでした。

 

── ろう学校に通われていたのですか?

 

藤木さん:当時、ろう学校は補聴器をつけても音がいっさい聞こえない子が行くところという考え方が強くて。弟は補聴器をつけると、相手の言葉の詳細はわからないものの、結構しゃべれたんです。一般の学校でもやっていけるだろうと判断され、小中は普通学級に通っていました。それが弟にとってはつらい環境だったようで、高校からはろう学校に行きました。

 

── 障害がわかってから、ご家族に変化はありましたか?

 

藤木さん:母は専業主婦で子育てにまい進するタイプだったので、弟の子育てにどんどん集中していきました。母と弟は完全に一体化していた感じですね。当時は弟のために家じゅうに張り紙を貼ったり、飛び出す絵本みたいな写真日記を作ったり。そういうことに楽しみを見出していました。あとになって母は、「つらいこともあったけれど、やっぱり成長していく姿を見られたのは楽しかった」と言っていました。

 

小学校入学時の藤木和子さん
小学校入学時。このころに弟さんの聴覚障害がわかる

── 小さいころ、弟さんとの仲はいかがでしたか。

 

藤木さん:仲のいい同級生の友達はいたんですけど、幼少期のいちばんの遊び相手は弟だったかも(笑)。弟と一緒にゲームにハマったり、漫画を読んだり。ケンカもいっぱいしましたけどね。今から思うと、弟は「姉は横暴だ」と思っていただろうな。弟の友達のお姉ちゃんが、優しくてめんどう見がよかったので、親からは「何でうちのお姉ちゃんはこんなに乱暴なの?」と言われていて。でも私は対等に遊ぶというか、いい意味で雑な関係のほうがいいと思っていたから、わかってもらえないなぁと(笑)。

 

── 下のきょうだいに障害があると、上の子は「私がめんどうを見なきゃ」と思うことが多いかもしれません。藤木さんの場合は、障害があってもきょうだい同士は対等な立場という思いが強かったのでしょうか。

 

藤木さん:そうですね。漫画とかゲームとか、共通で楽しめるものの世界の中では対等だったというか。親がすごく重く捉えていた反面、私は耳が聞こえないことを軽く考えていたところがあったかも。でも、やっぱり弟が学校で苦労したり、親が苦労している様子を見ると、自分が耳が聞こえるのは申し訳ないという気持ちはありましたね。

「後継ぎの弁護士になれ」父からの重すぎる期待

── ご両親と藤木さんはどのような関係性でしたか。

 

藤木さん:わが家は母と弟がセット、父と私がセットでわかれていて。父は、「弟のぶんもお姉ちゃんが頑張れ」と教育熱心で、いつも中学受験のための塾に迎えに来てくれて。母は、弟に集中して手をかけられなくてごめんねっていう感じで、弟のぶんも頑張れとは言われたことはなかったです。むしろ母は、私がちょっと勉強ができて、弟とどんどん差が開くことを悲しく思っていたようで、「お姉ちゃんがこんなにできなくても…弟にわけてあげればいいのに」と。親心を考えると苦しいのはわかりますが、じゃあ自分はどうすればいいの?と悩みました。

 

小学校5年生のころの藤木和子さん
小学校5年生のころ

──ご両親の意見が違うと、迷ってしまいますよね。

 

藤木さん:そうですね。とはいえ、そのあいだでどうにかバランスを取って生きてきたと思います。母は直接勉強を教えたりすることはなかったものの、受験のサポートはちゃんとしてくれていました。 

 

── きょうだい児は親からの注意が不足しがちとも言われますが、藤木さんは「お母さん、もっとこっち向いてよ!」という欲求はなかったですか。

 

藤木さん:当時はあまりなかったかもしれません。逆に、父が私にばかり期待することのほうが重圧で。今から思えば、そこは母に調整してほしかったという思いがあります。幼少期から私が家族の調整役を担っていた部分があったので。今は私は結婚して家を出て、実家には父と母と弟の3人で暮らしているので、母が調整役になってくれています。

 

──お父さまはどのような方ですか。

 

藤木さん:父は苦労して司法試験に受かった人で、熱いタイプですね。幼いころから「俺の跡を継いで弁護士になれ」とうるさかったものの、それ以外は自由にさせてくれました。「女性も活躍するべきだ」とよく言っていて、「友達みたいなお父さん」という面もありました。そんな父に反発して、よくケンカした記憶があります。

 

── ご両親や周囲の大人からかけられた言葉で、つらく感じたことはありますか。

 

藤木さん:弟といるとジロジロ見られたり、ひそひそ話をされたり…世間の冷たさは感じていました。あとは「弟のぶんも頑張ってね」とか、「弟の耳が聞こえないぶんの力は、お姉ちゃんにあるんだよ」という言葉は、励みにもなったけれど、同時に重くもありました。

 

── 周囲からの期待の大きさは、お父さまが弁護士事務所を開所されていた影響も大きかったでしょうか。

 

藤木さん:そうですね。小さいころから父は私を連れて歩いていて、「お父さんの跡を継いで弁護士になるんでしょう?」と声をかけられたりすることも多くて。よくも悪くもそこから逃れられなかったんです。

 

── 学校では将来の夢を書く機会もあったと思いますが。

 

藤木さん:そういうときは「弁護士」と書いていましたが、夢というよりは宿題という感覚で。今思うと、弁護士の仕事がどういうものかわかっていなくて、「日本でいちばん難しい試験だから」とか、そういうイメージに縛られていたと思います。父からは「司法試験さえ受かれば、何をしてもいい」とか「弁護士にならないなら俺のほうが偉い」などと言われ続けていて、当時はやってやる!という気持ちになっていましたね。