小学6年の夏、限界を感じて…

── 両親のどちらにも、自分の苦しさを理解してもらえない状況はすごくしんどかったと思います。

 

高橋さん:自分でも、あのころがいちばんキツかったなと思います。毎日の登下校で歩道橋や高いビルを見るたびに、「あそこから飛び降りれば死ねるかな」と考えたりもしました。学校に行くのは当たり前だと思っていたのでかろうじて登校はしていましたが、勝手に早退したりサボったり。思えば、よく授業の時間に公園で漫画を読んでいましたね(笑)。

 

小学生のころの高橋亜美さん
小学生のころの高橋さん(後列)

── その状態はいつごろまで続いたのですか?

 

高橋さん:小学6年の夏ごろまでです。父からコントロールされる生活を強いられ続けて、万引きもずっとやめられなくて。心から安心して人と信頼関係を築けない状態に「さすがに限界」となって、父に「卓球はもう続けたくない」と伝えました。すると、父は「わかった」とあっさり受け入れてくれました。私の万引きや成績不振などが続く状態を、父もさすがに「おかしい」と感じていたようです。こうして、最後はあっけなく父との卓球の日々が終わりを迎えました。

 

その後は、友達と普通に話せるようになり、不思議なくらい学校生活も楽しくなっていって。万引きも自然としなくなりました。今思えば、あのころは人生最大の暗黒時代だったと思う。当時の私が笑っている写真は1枚もないんです。

 

「死にたい」と思っていたし、父にも「死んでほしい」と真剣に思っていました。ただ、父の卓球へのいきすぎた情熱は、父自身の生い立ちにそう思わせる要因があったのかもしれません。「どうしても卓球だけは手放せない」と思わせるような、強い執着心のようなものがあったのかもと思っています。

 

── お父さま自身、過去につらい経験をされたかもしれないのですね。

 

高橋さん:そうかもしれません。…ちなみに私、卓球自体は今も続けているんですよ。練習はイヤでしかたなかったけれど、あのころ染みついた技術のおかげで上手なんです(笑)。今は遊びのひとつとして卓球を取り入れています。ときどき「ゆずりは」の相談者たちとも、「相談にのるのはイヤだけど、卓球だったらいいよ」って言いながら(笑)一緒に楽しんでいます。

 

PROFILE 高橋亜美さん

たかはし・あみ。「ゆずりは」所長。1973年、岐阜県出身。日本社会事業大学社会福祉学部卒業後、フリーランスでお菓子作り、バックパッカーで海外を旅するなどした後、自立援助ホームでの仕事に従事。2011年より現職。著書に『子どもの未来をあきらめない』(明石書店)などがある。

 

取材・文/高梨真紀 写真提供/高橋亜美