虐待などの理由から児童養護施設や里親のもとで育ち、満18歳でひとり暮らしを余儀なくされた人たちと関わる「ゆずりは」。所長の高橋亜美さん自身、小学生のときに父親から支配的な卓球の指導を受け、学校でストレスを爆発させていたと話します。(全3回中の1回)

運動が苦手なのに卓球の練習を強制されて

高橋亜美さん
高橋亜美さん

── 子どものころ、お父さまから厳しい卓球の指導を受けていたそうですね。

 

高橋さん:はい。実家は、父、母、3つ上の兄と3つ下の妹の4人で、ごく一般的な家庭で育ちました。両親は教育熱心なタイプというわけでもなく、自由にさせてくれたと思います。

 

それが、小学3年のとき、父の熱血指導で卓球を始めてから生活が大きく変わりました。父は学生のころ、卓球の選手を目指して練習に心血注いでいたらしく、自分の子には小学3年ごろから卓球をやらせたいと思っていたようです。でも、私はとにかく運動がキライで。卓球なんて興味もないし、全然やりたくなかったんです。

 

幼稚園のころの高橋亜美さん(左)
幼稚園のころの高橋さん(左)と3歳年下の妹さん

そうやって父との卓球が始まったのですが、小学4年の冬ごろになると父の指導がエスカレートしていきました。平日は、学校から帰ったら夕飯を食べて、午後5時くらいから卓球の練習が始まるのですが、遅いときは深夜12時くらいまで毎日練習。そのうち私は、父に反抗的な態度をとるようになっていきました。兄は野球をしていたので卓球はやらず、私と妹が卓球をしていたのですが、妹は要領がよく素質もあって上達が早かったんです。でも、私は上達が遅かった。反抗的な態度をやめなかったこともあって、父は私にだけどんどん厳しくしていきました。

普段は優しい父親が卓球のときだけ支配的に

── お父さまは、卓球の練習のときだけ、そんなに厳しかったのでしょうか。

 

高橋さん:そうなんです。普段の父はすごく優しい人でした。それなのに、卓球になると支配的になって、私はいつも身も心もぎゅっと締めつけられるような息苦しさを感じていました。苦しくて、違和感ばかりで、「どうして私がやらなきゃいけないの」と、よく練習中にふてくされていました。

 

そのうち、父から殴られたり、「なんだその態度は!座ってろ!」と2時間くらい正座をさせられたりすることも増えて。父の厳しい指導はエスカレートするいっぽうで、小学5年の1年間は、卓球の練習時間よりも怒られている時間のほうが長いほどでした。

 

── それはつらいですね…。

 

高橋さん:ただ、私もさすがに毎日練習をしていたから、卓球自体は上達してきて。岐阜県で1位、2位のレベルで全国大会にも出場するまでになりました。とはいえ、父への恐怖心が募り、自分の気持ちが萎縮していくのを感じていました。

 

そのうち、自分のストレスを学校の先生や友達にぶつけるようになっていきました。学校で友だちに八つ当たりしたり、先生から態度を注意されても「私は悪くない」と反抗したり…。勉強も全然身に入らなくなり、成績が落ちていきました。気づくと友達がいなくなっていて、学校ではすっかり孤立した状態に。自分でも、「こんな子と一緒になんていたくないよね」と思うくらい、イヤな子どもになっていたと思います。

万引きがやめられなくなった

── ずっと我慢して溜まっていたストレスが、学校で爆発してしまったのですね。

 

高橋さん:そうですね。あとは、万引きがやめられなくなって…。気づくと、万引きをしているんです。といっても取ったものは全然、大事にできなくて結局、捨ててしまっていたのですが…。あのころは、万引きで何度もお店の人に注意されていました。

 

幼少期の高橋亜美さん
幼少期の高橋さん。お母さまと一緒に

── 自分ではどうしようもできない状態だったんですね。お母さまに相談したりはしなかったのですか?

 

高橋さん:母は自由奔放というか、「自分で考えて決めなさい」という考え方で。父との卓球を辞めたいと母に相談したことはあるのですが、「それはお父さんと亜美の間で起こっていることだから、私は口を出さない」と言われてしまったんです。それで「ああ、おかあに言ってもダメなんだ」と母に頼ることを諦めてしまっていました。「自分で何とかしなきゃいけないんだ」って。

 

振り返ると、あのころは父と母も安心な関係でなかったのかも。母は「子どもがこんなに苦しんでいるんだから」と父に伝えることがどうしてもできなかった。それは何か事情があってのことだったのかもしれません。