仕事がうまくいかない、人から評価もされない。グチや不満タラタラで悪態をついて…。そんなどん底から、人はどう浮上できるのか。レギュラー12本を抱えた売れっ子から、急下降したタレントの森脇健児さん。希望の光は思わぬところで、自分の中で気づきとして芽生えたといいます。(全5回中の3回)

12本のレギュラー出演「ヘリで移動することも」

森脇健児さん
ロングジャケットに短パン姿。森脇健児さん絶頂時の一枚

── 関西でブレイクし、23歳で東京に進出。その後は、『夢がMORIMORI』『笑っていいとも!』などのバラエティ番組をはじめ、1990年代はドラマにCM出演など、森脇さんをテレビで見ない日はないほどの活躍ぶりでした。

 

森脇さん:あのころはとにかく忙しくて、朝から夜までスケジュールは真っ黒。深夜を過ぎても予定が埋まっていました。ピーク時は12本のレギュラーを抱え、ヘリコプターで移動したことも。テレビ以外でも、松竹芸能の芸人として営業に行ったり、舞台で漫談をしたりと、寝る時間はほとんどなかったですね。25歳の最高年収は1億円。品川区の上大崎に5年ローンで8800万円のマンションを買い、さらにキャッシュでベンツを2台も購入。駐車場代が11万5000円でした。当時は売れていたから、どこに行ってもチヤホヤされて、飲みの場に女の子がいっぱいいたり、隣の席にJリーガーや有名人がいたりと華やかで「うわあ、これが東京やなあ」と思っていました。

 

でも、だんだん仕事が減ってきて、30歳のときにはレギュラー番組がゼロに…。ぼくはたまたまラッキーパンチが当たっただけで、実力がたりなかった。たいしてオモロないことがバレてしまったんですね。

 

── ご自分では、その状況に気づかれていたのですか?

 

森脇さん:「これってラッキーパンチだよな」とは気づいていました。たいして実力もないのに次から次へと仕事がきて、お金もたくさんもらって高級マンションに住んで…。ふつうに考えたらおかしいじゃないですか。だから、ガーッと勢いよく売れていったときは、正直怖かったです。こんなのいつまでも続くわけがないよなと。そうした焦りもあって、ボクシングに打ち込み、プロのライセンスも取得しました。ほかのことに没頭して、現実から逃げていたのかもしれません。冷静に状況を分析しだすとおかしくなりそうだから、「我に返らない」と決めていたんです。

 

森脇健児さん

だから、仕事が全部なくなったとき、「これでようやく神輿から降りられる」とホッとしていた自分がいました。ただ、結婚して子どもも2人いたので、家族を養っていかなくてはいけません。家と車を売って、関西でゼロからやり直すことにしたんです。そのころにはバブルが弾けていたので、マンションは2200万円まで下落。売却したら手元に1000万円くらい残ったので、ローンは返せたのですが、あれほど稼いだお金は、泡のように消え去りましたね。

髪の毛は抜け、グチや不満が止まらなかった

── まさに、身ひとつで関西に戻られたのですね。

 

森脇さん:借金がなかったのはさいわいでした。でも、いま思えば、何も持ってなくてかえってよかったのかもしれません。もしも当時、家賃収入などの不労所得があったら、きっとこれほどがむしゃらにはなれなかったでしょうから。そうなると、いまのぼくはいません。

 

── 気持ちが荒んでしまったり、腐りそうになったりすることはなかったですか?

 

森脇さん:そういう時期もありましたね。メンタルが追い込まれ、髪の毛はほとんど抜けてしまいました。いちばん停滞していたころを振り返ると、グチや不満、人の悪口ばかり言っていました。情けない自分を認めたくなくて「番組の企画が悪い」「スタッフが悪い」と、周りのせいにして…。そんなんだから、当然、周りの人がどんどん離れていって、そのうち誰もいなくなってしまった。孤独でしたね。

 

どん底状態のとき、頭によぎったのは、高校時代の陸上部の監督の言葉でした。「努力するもの夢語る。サボる人間グチ語る」。その通りだなと思いました。そこから、ダメな自分を変えようと決意。グチや泣き言はいっさいやめて、素直、謙虚な態度、感謝の心を大切にして、とにかく自分はツイているし運がいい、人とのご縁があるんだと考えるようにしたんです。そうしているうちに、だんだん周りとの関係もよくなって、仕事を少しずつもらえるようになっていきましたね。