「初の女性監督」としてソフトボール界を牽引し続けた宇津木妙子さん。実業団・日立高崎から監督就任打診を受けて父に相談したところ、父は涙を流しながら──。(全4回中の1回)

父と「3年間」の約束で実業団チームの指導者に挑戦

宇津木妙子さんと父
「3年間頑張ってみろ」と背中を押してくれた父と

── 現役時代から、指導者への道を意識されていたのでしょうか。

 

宇津木さん:現役のころは、指導者になることはまったく考えていませんでした。初めてコーチとして、ジュニア世界選手権での指導を依頼されたのは、現役選手として活動していた28歳のころ。大会が「第1回」ということもあり、「現役選手に指導をしてもらった方がよりいいだろう」ということで、私に声がかかりました。

 

ジュニアの選手たちは、18歳くらいの年ごろ。男女で寮に寝泊まりして練習していたため、生活面にも指導をしなくてはならず、なかなか大変でした。でも、この大会で日本がアベック優勝を果たしたことが、私の指導者としての人生に大きく影響していると感じています。

 

現役時代の宇津木妙子さん
現役時代。選手経験が指導者としての手腕にも生かされた

── 31歳で現役を引退して以降は、「選手の育成」に力を注ぐことになりましたね。その経緯について教えてください。

 

宇津木さん:第2回ジュニア世界選手権でも、コーチとして指導することになったころ、日立高崎から「今、指導者がいないので、コーチとしてうちのチームを指導してほしい」と連絡をもらいました。

 

日立高崎に訪問し、選手たちの練習風景を見させてもらったところ、インターハイ出場経験を持つ優秀な選手がそろっていて、練習環境もいい印象。当時の日立高崎は3部リーグでしたが、「練習次第で、勝てるチームになれるのでは?」と感じました。そこで「監督が決まるまでの期間、一緒に練習しよう」ということに。翌日から指導に入り、1か月も経つと、選手たちはグングン上達し、「2部リーグは難しくなさそう」と予感させるほどでした。

 

── 当初は「監督」として指導していたのではなかったのですね。

 

宇津木さん:監督として正式に就任したのは、日立高崎の指導を開始しした翌年のことです。コーチとして指導し始めた年の年末に、当時の工場長に「正式に監督として指導してほしい」とオファーを受けました。そのときは「やってみたい」という意欲とともに、「私に務まるかな」という不安も感じていて。その場では返事をせずに「年明けまで待ってほしい」と伝えました。

 

── どなたかに相談したのですか?

 

宇津木さん:正月に実家に帰り、父に相談しました。父と向かい合って真剣に話したのは、高校卒業後、ユニチカの実業団チームに入団したとき以来。父は、5人兄弟の末っ子である私に対して、しょっちゅう「早く結婚して家を継いでほしい」と言っていたので、今後についての意見を伺うことにしたんです。

 

話し合いの中で、私が現役時代に苦労したことや、悔しい思いをしたことも話しました。すると父は、涙を流しながら私の話を聞いてくれて、「監督になったなら、リーダーと同時に裏方にも徹しなければいけないよ。ソフトボールのスキルを育てるだけではなく、会社の代表として『人となり』も教育しなければ、世間は認めてくれないだろう」と話してくれました。

 

父の言葉を受けて「『強くて愛されるチーム』という理念のもと、選手を生かしながら、一人ひとりと向き合って、平等で公平なチームを作っていきたい」と決意。父からは「それなら3年間頑張ってみろ。それで結果が出なければ辞めなさい」と言われました。

 

── お父さんの言葉が、宇津木さんの背中を押してくれたのですね。

 

宇津木さん:そうですね。父の言葉を受けて、年明けに工場長に「監督を引き受けたい」と返事をしに行きました。