窓の外に黒い塊が…「今じゃあり得ません」

子役時代の内海和子さん
子役時代。今と変わらない美しさ

── 夕やけニャンニャンは毎日、生放送でした。人気が高まり、多忙を極めていた頃かと思います。当時はどのような生活を送っていらっしゃったのでしょうか?

 

内海さん:まず忙しすぎて、今どこにいるのかがわからなかったです。「明日はパスポート持ってきて」とだけ言われて空港へ行くんですが、目的地を知らないまま「今日は海外のどこかに行くんだって」みたいな。そんなことの連続です。ハードな生活の中でも、学業優先ですから、みんな寝ずに宿題をしていました。現場でも片隅にテーブルを置いて、時間を見つけては勉強していました。学業をまっとうしていたという点では、おニャン子クラブっていま振り返ってもすごいなと思います。

 

おニャン子クラブの人気が出たので、ファンの方もすごかったですね。最初の頃は、番組が終わると同じ方向の子たちと乗り合わせてタクシーで帰宅していたんですけど、テレビ局の外に出るとバイクや車が何十台と待機していて、ファンの方たちが待っているんですよ。当時は個人情報など守られてないときで、ファンがアイドルの家を知っているというような時代。そんなファンが私たちの乗るタクシーを追いかけてくるので、途中で交番に寄るなど、試行錯誤しながら家に帰っていました。それが毎日でした。

 

── 毎日!当時の人気のすごさを感じます。今でこそストーカーという言葉がありますが、怖い思いなどはされたこともありましたか?

 

内海さん:ある日、家の窓から見て「なんか黒い塊があるけどあれなんだろう?」って母に言われてのぞいてみたら、なんと寝袋に入ったファンが家の前にいたんです。当時マンションの1階に住んでいて、ベランダの外でもファンが寝ているなんてことがありました。今じゃありえませんよね(笑)。でも、母なんて「せっかく家まで来てくれたからお茶くらい…」と、招き入れてしまったことがあって。それはもう当時でも危険な行為で、テレビ局からもお叱りを受けたことがありました。そんな時代でしたね。

 

── そんな内海さんも卒業を迎えることになりましたが、どのような流れだったのでしょうか?もっと長いように感じていましたが、おニャン子クラブでの活動期間は2年半というのにも驚きです。

 

内海さん:そろそろ卒業かなというタイミングは感じていました。事務所にも入っていて「これ以上このグループにいるわけにはいかないな」という自分のけじめのようなものを感じ始めていましたし「ひとりで何かやってみたい!」という思いも芽生えたタイミングで、卒業の打診があったので、すぐに受け入れられました。87年4月に、一番仲のいい5人(樹原亜紀・国生さゆり・立見里歌・高井麻巳子)で卒業できたのは本当によかったです。

車の免許をとったばかりで国内A級をとることに

内海和子さん(Instagramより)
80年代リバイバル「セーラーズ」の服を着て笑顔の内海さん(Instagramより)

── おニャン子クラブ卒業後は芸能活動のかたわら、カーレーサーをなさっていたというのは本当ですか?

 

内海さん:はい。これもご縁というか、免許取りたてでお仕事に行った先の方に「レースやったことある?」って聞かれて。私の中では完全に手芸の「レース編み」のことかと思って「編んだことはあります!」というと、「そっちではなく車のほうだよ(笑)。君、やってみない?」と。当時、女性では三原じゅん子さんがカーレーサーとしてすでに活躍されているときで、アイドルの女の子がレースに出るのはおもしろいと言われて。右も左もわからない状態で始めることになったんです。

 

私はやるとなったら本気でやっちゃうタイプなので、そこからA級ライセンス取得に向けて半年間、週に3回、都内から高崎まで車を走らせました。初心者で逆に癖のない運転だったので、スポンジのように吸収していって、半年かけてA級ライセンスを取得。NISMOのワークスドライバー(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル株式会社の自社組織チームのドライバー)という名誉を与えていただきました。富士スピードウェイとつくばサーキットを拠点に、三原じゅん子さんやライオネス飛鳥さんと同じチームで日産マーチターボと日産マーチを運転していました。

 

普通の車と違い、パワーステアリングがないのでハンドルは重くて爪が割れるし、革のグローブをはめていても手のひらの皮がむけて出血。何度もろっ骨が折れたし、常に危険と隣り合わせで命がけの仕事でしたが、根性がつきました。ストレートを200〜300キロで風をきって走るっていうスピード感はやっぱり特別でした。男性と対等にレースで活躍するということも嬉しかったですし、すっかりカーレースにハマりました。

結婚で芸能生活をいったんリセットする決意

内海和子さん(Instagramより)
車に乗るのは今でも大好き(Instagramより)

── ご主人との出会いもサーキットだったそうですね。

 

内海さん:つくばサーキットで、三原じゅん子さんと夫の車と3台でクラッシュしたことがあって。私がサンドイッチ状態で挟まってしまったんですね。そのとき私を引き出して助けてくれたのが、夫でした。まったくタイプでもないし、芸能人としての私のことを知らなくて、つき合うなんて、全然思ってもいなかったんですけど。その後、練習を一緒にすることになって、私のことをちやほやせずに車のテクニックを教えてくれたんです。

 

── その後、結婚する運びとなったのですね?

 

内海さん:当時、私が結婚のタイミングを悩んでいた頃、思いきった写真集を出す話があがったんです。「やるからには徹底的に頑張ります!」と、迷わず脱ぎました。私の場合は女性ファンが多かったので、女性が見ても恥ずかしくなく見られる写真集にこだわって、いちから関わって準備しました。誰に相談するでもなく、自分で決めて納得する作品を残せたなと思います。そんな大きな機会を事務所にもらい、気持ちを切り替えるきっかけにもなりました。その後、次のステージへ進むべく、芸能活動に区切りをつけて結婚することにしたんです。

 

PROFILE 内海和子さん

うつみ・かずこ。1967年生まれ。東京都出身。子役時代を経て、1985年4月にテレビ番組「夕やけニャンニャン」のおニャン子クラブのメンバーとしてオーディションに合格し2年半活動。卒業後は芸能活動のかたわらカーレーサーとしても活躍。芸能活動をひと区切りさせ結婚・出産。愛娘・ゆりあんぬはライブアイドルとして活躍中。近年はパニック障害で闘病した経験も公表。娘や家族との日々の様子をSNSやブログで発信している。

取材・文/加藤文惠 写真提供/内海和子