夏は灼熱の太陽を浴び、冬は鳥肌になりながら撮影を行うグラビアアイドルはいつだって過酷です。でも、「それが一番望んでいた仕事」と、川村ひかるさんは言います。グラビアの王道を歩んできたこれまでについて聞きました。(全4回中の4回)

悔しくて彼氏の部屋のポスターをはがした中学時代

川村ひかる

── 川村さんは1990年代後半から2000年代にかけて雑誌のグラビアなどで人気を集めました。グラビアアイドルになりたいと思ったのはどんなきっかけがあったのでしょうか?

 

川村さん:中学生のころ、好きだった彼の家に遊びに行ったとき、雛形あきこさんのポスターが貼ってありました。私はやきもちを焼いて、そのポスターをはがして帰ったんです。ところが、次に行ったとき、またそのポスターが貼り直されていて(笑)。悔しくもありましたが、改めてポスターを見ると、きれいなビーチで綺麗なお姉さんが笑顔でポーズをとっている姿が、すごく素敵だなと思ったんです。

 

当時、雛形さんのことはよく知りませんでした。でも、きっと全国の男の子たちが雛形さんの写真を見て「可愛いな、この子はどんな子なんだろう」と、憧れやいろんな思いを抱いていると想像すると、それってすごいことだと感じて。もともと何かにのめりこみやすい、一直線な性格だから、「グラビアアイドルになれたらいいな。いや、なりたい!絶対なる!」と、それしか見えなくなっていました。

 

── 最初からグラビアアイドルに憧れていたのですね。芸能界入りまでにはどんな経緯があったのでしょうか?

 

川村さん:グラビアアイドルとして活躍できる体型をめざし、区民プールで泳いで身体を絞ったり、家の外を走ったりするなど、ひとりで地道にトレーニングをしていました。「スカウトされないかな?」なんて思いながら、週末は渋谷や原宿に行ってみたりして…。たまたま当時の事務所の社長が、私の家の近所に住んでいたんです。あるとき、社長を送った帰りのマネージャーの方が、私を見かけてスカウトしてくれました。

 

── 地元でスカウトされたのですね。芸能界に入った後は、どんな生活を送っていましたか?

 

川村さん:CMやドラマなど、毎週何かしらのオーディションを受けていました。でも、私としては、グラビアアイドルになることしか頭になかったんです。歌手や俳優の活動もさせていただきましたが、「やりたいことと違う」という違和感がずっとありました。当時の事務所には、たくさんの経験をさせていただいて感謝しています。でも、グラビアにはあまり力を入れていなかったんです。だから、思いきって事務所を移り、本格的にグラビアの仕事に取り組むようになりました。

真冬の水着は寒さで唇が青くなり「過酷でも充実感」

── 念願のグラビアの仕事に取り組むようになり、実際の現場はいかがでしたか?

 

川村さん:想像以上に過酷でした。真冬の屋外撮影では、周囲のスタッフが厚着しているなか、私は水着姿で震えていました。当時は写真の修正技術もそんなに進んでいませんでした。寒さで唇が青くなっているのも、鳥肌もそのまま雑誌などに掲載されてしまうんです。だから、とにかく気合で乗りきりました。撮影日が決まったら、1日でも早く教えてもらい、その日に合わせてコンディションを整え、気持ちを高めていきました。

 

川村ひかる
現在は健康に関する講演などを積極的に行っている

── 気合で寒さも吹き飛ばしたんですね。すごいです。

 

川村さん:暑い時期も日差しが強くて大変なんですよ。屋外ではレフ板で太陽の光を反射させて顔を明るくしてもらいます。それがまぶしくて…。最初のころは目を開けられませんでした。でも、不思議なことに慣れていくんです。どんな状況でも笑顔を作れるようになりました。そのころは、グアムやサイパン、ハワイなど海外にもよく撮影に行っていました。観光地やビーチでも撮影するので、カメラマンの後ろでは、たくさんの観光客の人たちがのんびりしているんです。

 

そのなかで、私だけが撮影しているのは不思議でした。プライベートでは旅行に行く時間の余裕はないし、仕事で観光地に来てもとんぼ返りなのはさみしかったです。でも、念願のグラビアの仕事をしているんだと思うと嬉しく、たくさんの経験をさせてもらいました。

 

── 念願のグラドルになって、嬉しいことはありましたか?

 

川村さん:写真集を発売させてもらって、サイン会などを行うと、たくさんのファンの方が来てくださるのがすごく嬉しかったです。普段は、なかなかファンの方に会う機会がなかったのですが、実際に応援してくださる方に会えるのは、すごく充実した時間でした。