フリーアナウンサーとして活躍する岩佐まりさん。母親が60歳で若年性アルツハイマー型認知症を発症し、シングル介護を続けています。どのような病気で、介護と向き合い続けるために必要だったものや、子育てとの両立について伺いました。(全3回中の2回)

母を幸せにできるのは自分だから介護をしたい

── お母様が55歳のときに物忘れが始まり、60歳で若年性アルツハイマー型認知症を発症しましたが、気づいたきっかけはなんでしたか?

 

岩佐さん:物忘れは誰しもあると思いますが、母の場合は忘れたことを忘れている感じでした。発症当時は母と別々に暮らしていたのですが、電話をきった5分後に「久しぶり」ってまた電話がかかってきて。最初はそれがすごく怖くて父に聞いたら、家事などにも支障が出ていたようで、父も様子がおかしいことには気づいていたようでした。

 

お母さんと岩佐さん

とりあえず私が病院に連れていったのですが、母はまだ50代でしたし、今のように専門外来がなく、なかなか病名にたどりつかず…。最初は脳萎縮もみられなかったので、いくつかの病院で検査を受けてやっと病名が判明しました。

 

── 若年性アルツハイマー型認知症のことは知っていましたか?

 

岩佐さん:当時、私はまだ20代ということもあり、知識がまったくありませんでした。ただ、高校生のときに演劇で認知症の父親の娘役を演じたことがありました。「もしかして、あのときの病気のことかも?」と思い立ったくらいでした。

 

診断結果は母といっしょに聞いたのですが、母はショックでずっと泣いていて…。今後について話し合おうと思っても、母は将来については考えられないと泣き、父は自分では介護できないと言い…。なので、「じゃあ私が母を介護するしかない!」と覚悟を決めました。

 

── 具体的にそれからどうされたのですか?

 

岩佐さん:母は若年性アルツハイマー型認知症と診断されたのですが、診断された段階ではまだしっかりしていました。私は東京でいっしょに暮らそうと誘ったのですが、母はまだ父と大阪で生活したいと言うので、本格的に東京に呼んだのは約4年後、母が64歳になってからでした。その間、私は東京と大阪を行ったり来たりする生活でした。

 

実は認知症と診断された直後、母が60歳の頃に一度、東京でいっしょに暮らしたこともありました。でも父がさみしいということで、結局、半年ほどで大阪に戻ることに。そこからは父も頑張って母の介護をしていました。

 

── 施設で暮らしてもらうことは考えなかったのでしょうか?

 

岩佐さん:物忘れが始まったのは50代ということもあり、本人も施設に入ることを望んでいませんでした。50代なのでまだ体は元気で、同年代の人は施設にはなかなかいません。70〜90代の方々と一緒に暮らすのはかわいそうかもと思いました。

 

病気の初期段階では、自分が今後忘れてしまうことを理解していることも本人には恐怖です。私の願いは母に幸せを感じてほしいということ。母を一番幸せにできるのは自分だと思っていたので、それならば私が介護しようと決意しました。