小学生時代は壮絶ないじめに遭っていたと語るアン ミカさん。理不尽な扱いを受けながら母の気づいたことがあったといいます(全5回中の3回)。
今まで人気者だったはずが…
── いつもポジティブな印象のアン ミカさんですが、小学生の頃は学校生活が大変だった時期があったと聞いています。
アン ミカさん:小学生の頃は壮絶ないじめに遭っていました。韓国人とか両親の日本語が完璧じゃないということを言われたり、道徳の授業で韓国について習った瞬間に、今まで人気者だったのに、友達の家に遊びに行ったら「あ、ミカちゃん、今日遊べない。道徳で習ったことをママに言ったら、遊んじゃダメだって言われた」とか、理不尽な思いもしましたね。
ただ、うちの母親は戦わない人だったんです。友達とのできごとを、ポロポロ涙を流しながら話すと、「あら、みんな韓国が自然豊かで綺麗な場所で、ご飯が美味しいことをきっと知らないのね」と言って、韓国の美しい景色の写真を私に見せてきて。当時、家がラーメン屋さんをやっていたので、「うちでラーメンと餃子と美味しい韓国料理を食べてもらいましょうよ。その子たちをお家に呼びましょう」と言って、その子たちの父兄に連絡したんです。
向こうはドキッとしたと思いますけど、何組かの家族を家に呼んで、私でも食べたことがないプルコギとか振る舞ったんです。そしたらみんなが「美味しい」って。母も「韓国の美味しいご飯なんですよ」とコミュニケーションをとっていて、母から戦わない方法を学びましたね。まぁ、それでも一部の人たちはしつこかったので、そこでは自分を守るために正しく戦って、強くなりました。
── 中学生になると、さらに環境が変わったそうですね。
アン ミカさん:中学校はいくつかの小学校が集合してひとつの中学校になり、私は下町から少し遠いところまで通うようになりました。周りは品のある人も多かったし、もともと通っていた教会仲間や小学校からの親友もいて、部活も入り、勉強も頑張り、新聞配達のアルバイトもし、すごく充実していました。先生とも仲がよかったので、「あの不良をまとめるにはどうしたらいいか」など、先生からの相談にのったり、私が間に入ることもありましたね。
── しかし、順調に学校生活を過ごすなか、お母様の体調が徐々に悪くなっていったと聞いています。
アン ミカさん:私が中学生になった頃から体調が徐々に悪くなり、途中から寝たきりになってしまいました。病院に入院することになって、私も家から週に1回会いに行くように。病室で母に話しかけながら受験勉強もしていました。母が私に行って欲しかった高校があったので、最後の方は母の意識もなかったんですけど、寝ている母に向かって「模試でA判定でたよ」って報告しながら、私が中学を卒業する直前に亡くなりました。
── 亡くなってしまったお母さまから、たくさんの影響を受けたそうですね。
アン ミカさん:モデルを目指したのも母の言葉でした。私は幼少期に階段から落ちて顔に怪我をしたんです。笑うと唇がめくれたように見えるし、自分にも自信がありませんでした。でも母が途中で化粧品会社に就職して、そこで習ったマナーみたいなものを私たち子どもにも教えてくれて。姿勢と口角を上げることや、笑顔と話し方を教えてくれました。
母が、兄弟の中で人一倍練習する私を見て、「いつも綺麗な笑顔作ってるし、ミカちゃんは手足が長いからモデルになれるかもね」ってよく言ってくれたんです。母の言葉がきっかけで、モデル事務所の門を叩きました。