日本各地をまわり、精力的に子ども向けライブを行っているお笑い芸人・小島よしおさん。子どもの悩みに独自の目線で寄り添いアドバイスをするコラムなども話題です。そんな小島さんご自身はどんな子ども時代を過ごしてきたのでしょうか。(全5回中の1回)
通知表には「おしゃべりが多い」「落ち着きがない」
── 小島さんといえば「そんなの関係ねぇ」が2007年に大ブレイクして脚光を浴びました。最近は子ども向けの活動で人気を集めていますが、ご自身が幼い頃はどんなお子さんでしたか?
小島さん:2つ上の兄と両親の4人家族の家庭で育ちました。母が沖縄県出身で、里帰り出産をしたので、生まれは久米島。その後はずっと千葉県で暮らしました。
子どもの頃はバラエティ番組を見るのが大好きで、よくウッチャン・ナンチャンのモノマネを学校の友だちの前でしていました。クラスで「お笑いコント係」というのをつくって、帰りの会でコントをやったり。クラスのひょうきん者というか、お調子者でしたね。通知表にもそうした性格のことが書かれていたのを覚えています。「おしゃべりが多いから集中力が…」とか、「お友だちにすぐ話しかけて落ち着きがない…」とかなんとか(笑)。
学校以外では、習い事を結構やっていました。書道・水泳・柔道・公文とか、いろいろ習わせてくれました。父は成績について何も言わなかったけど、母は勉強に熱心だったと思います。日本の歴史・ことわざ・四字熟語など、さまざまな学習漫画を揃えてくれていて、兄と読んでいました。
父が選挙に6回落選「母は相当苦労したと思う」
── 小島さんのお父さんは長年、選挙に出ていたそうですね。
小島さん:僕が生まれたときから高校生まで父は選挙にずっと出ていました。選挙は日常で、わが家の恒例行事というか、イベントのような感覚でしたね。「またやるよー」って(笑)。選挙活動は母は全面サポート、僕は選挙カーに乗ったりポスターにシールを貼ったりしていました。
── そんなお父さんですが、選挙に6回落選してしまったそうですね。当時はどのような様子だったのですか?
小島さん:民社党の職員として勤めるかたわら、国政選挙にも6回立候補しました。選挙に出るのはものすごいお金がかかって大変なんですよ。当時は幼かったこともあり、落選するたびに「またやります」という父に対して特別な思いはありませんでした。ただ、間違いなく母は大変だったと思います。経済的な大変さもありますが、サポートする家族としては精神的にもきつい。年賀状とか1万枚くらい母が書いていましたから。
だから、父が「また出馬する」と言うたび、母は内心穏やかではなかったと思います。
最後の選挙なんて、家族に相談なしに退職金に手を出して出馬していたので、母はめちゃくちゃ怒っていました。子どもには相談しなくとも、母にはするべきですよね、って僕でも思います。母は新聞で父の出馬を知ったんですから(笑)。
うちの父はよく言えば「楽天的」、悪く言えば「自分勝手」で「何とかなるだろ」っていう人なので、母はそうとう苦労したんじゃないかと思います。
のちに母は「家を守れない人が国を守れるわけない!」って言ってましたけど(笑)。反面教師じゃないですけど、今自分も家族を養う身になり、そこはやはり優先順位を間違えてはいけないなと思いますね。父に学びました。