元日本テレビアナウンサーの宮崎宣子さんは、日本テレビ在職中に2度の休職をしました。休職中に考えていた自身のキャリアとその後の選択について伺いました。(全4回中の1回)

仕事に集中するうち味覚がなくなって

── 日テレ時代、2度休職されています。1度目の休職は顎関節症によるものだったそうですね。

 

宮崎さん:顎の痛みと、就寝中に歯が欠けることがあり、歯科に行ったところ顎関節症と分かりました。「このまま放っておくと顎が頻繁に外れるようになる」と言われて治療を決心しましたが、食事のとき以外は24時間、矯正用のマウスピースをつけっぱなしにしなければなりませんでした。

 

当時はちょうど30歳を目前に控えていた時期。20代を振り返ると、がむしゃらに走り続けて、やりたいと思い描いていた仕事はすべてさせていただいていました。だからこそ、先が見えなくもなっていました。「これはいい機会なのかもしれない。将来を考えながら少し休もう」と、約8か月間休職して治療に専念しました。

 

── 復帰後は、どんな気持ちで仕事に臨まれましたか?

 

宮崎さん:「休んだぶん、早く挽回しなければ」という焦りが大きかったです。復帰後は朝4時からの生番組を担当することになりました。週の前半は20時頃までロケに行き、週の後半は生放送に臨む…という生活。昼夜逆転しましたが、仕事をさせてもらえることが有り難く、また楽しくて無心で仕事に打ち込んでいました。生放送の後にはナレーションや別の収録もありましたが何の苦痛もありませんでした。

 

入社間もない頃の宮崎さん

── ものすごくハードな生活ですね…。

 

宮崎さん:いま考えるとハードなんですが、当時は仕事に対して「つらい」とか「早く帰りたい」と感じたことは1度もないんです。休職して「やはりこの仕事が好きだ」と改めて気づけたこともあり、復帰できた喜びが強く、寝る間がなくても仕事に集中できたのだと思います。

 

そんな毎日を送っていたら復帰から半年も経たないうちに、食べ物の味が分からなくなりました。体の怠さも気になるし、よく考えたら復帰してから1度も熟睡できていない。睡眠薬をいただいたのですが、金曜の夜に飲んで休んでみると次に目覚めたのが日曜のお昼だったんです。

 

── 36時間以上眠り続けたということですか!?

 

宮崎さん:そうですね。自分でも怖くなり、もう少し弱い睡眠薬をもらえないか近所の心療内科を受診したところ、その場で「仕事はしばらく休みなさい」と、ドクターストップがかかりました。交感神経と副交感神経のバランスが崩れて脳が休めない状態に陥っていたらしく、「このままだと、うつ病かパニック障害か睡眠障害になってしまう」と忠告されました。

 

「それでも仕事を休むのは嫌です」と必死で説得したのですが、「医師としてこれ以上働かせるわけにいかない」と止められ、再び休職することになってしまいました。

2度の休職期間中に考えたこと

── 当時の心境について聞かせてください。

 

宮崎さん:私にとってアナウンサーの仕事は天職だと思っています。もちろん、仕事は楽しいことばかりではないですが、つらいと思ったことは1度もなくて。現場に入ると自然と仕事に没頭できるし、どの仕事も新鮮でやりがいがあるんです。

 

そんな風に感じられる仕事と出会えるなんて、とても幸せなことですよね。だからこそ、仕事から離れたくありませんでした。

 

日本テレビでは、情報番組「ラジかるッ」などを担当

── 大好きな仕事を2度も休まなければならず、つらかったですね。

 

宮崎さん:そうですね。ただ一方で、1度目の休職期間中に将来をぼんやりと思い描いていたとき、なぜか30代40代の自分が日テレで楽しく仕事をしている姿が想像できなかったんです。実はそれ以降、「もしかしたら日テレには長くいないのかも」という気持ちも心の隅にありました。

 

なので再び休職せざるを得なくなったとき、「もうここにはいられないな」と絶望する反面、「これからの生き方を真剣に考えなければ」と思いました。

 

半年間の休養中は、故郷の宮崎県でゆっくりと過ごしました。私の地元は山と海、そして田んぼと大自然に囲まれています。毎日森の中を散歩しながら、将来について考えていました。

働きやすい日テレを辞める決断したわけ

── その後、再復職されました。どのような考えで復職を決めたのでしょうか?

 

宮崎さん:休養期間が明けたらそのまま退職するという選択肢もありましたが、上司から「1度戻って来い」と言ってもらいました。私も職場に2度も迷惑をかけたまま去るのは不義理だと思いましたので、お世話になった方々に少しでも恩返しをしてからけじめをつけようと復帰しました。

 

いざ復帰すると日テレの働きやすさを改めて感じたんですよね。日テレという看板があるからこそ働けることや、休職しても給料がいただけることのありがたみなど大会社に守られていることを改めて痛感しました。このまま日テレで働くか、辞めて一人で戦っていくのか再び悩み始めました。

 

日本テレビを離れ、新たなキャリアを歩んでいる宮崎さん

── キャリアについて、宮崎さんと同じように悩む人は多いと思います。将来どう生きたいと考えて退職を決断しましたか?

 

宮崎さん:復帰して間もなく東日本大震災が起き、世の中がガラッと変化するのを目の当たりにしました。将来を思い悩んでいた私にとって、復帰直後に起きた震災は「このままではいけない、次に進みなさい」というサインに受け取れたんです。

 

今決断しなければ後悔するかもしれない。怖いけれど「えい!」っという気持ちで退職を決断しました。今の自分を何か変えなければという思いだけで、勢い任せのところもあったかと思います。

 

PROFILE 宮崎宣子さん

宮崎県出身。2002年、日本テレビにアナウンサーとして入社し、「ラジかるッ」「ザ・世界行天ニュース」などを担当。愛嬌のあるキャラクターで親しまれる。フリーアナウンサーに転身後は、2018年に自身がプロデュースするオーガニックハーブを扱うボディーケアブランド「EMARA」を立ち上げ、実業家としても活躍。2022年から早稲田大学経営管理研究科に在学中。2021年に再婚し、不妊治療を経て2023年に第1子を出産。

 

取材・文/笠井ゆかり 画像提供/宮崎宣子