30代になって大学で学び直しを始めた水野裕子さん。大学のある愛知と仕事現場の東京を往復する日々。疲弊しなかったのでしょうか?本人に聞いていると、その返事はキラキラとしたものでした。(全4回中の3回)

 

美少年にしかみえない!ころころ変わるヘアカラーを楽しむ水野さん

科学の知識はほぼゼロ「中学生向けの参考書からやり直して」

── 2011年に、愛知県の修文大学(健康栄養学部管理栄養学科)に入学されました。仕事との兼ね合いを考えると、東京にある大学のほうが通いやすい気がしますが、なぜ地元の大学を?

 

水野さん:東京の大学も検討していたのですが、希望する学校は都心から離れた郊外が多く、どうやって通学しようかと悩んでいたところ、地元に栄養学を学べる大学が新設されたと知りました。

 

考えた結果、地元でレギュラー番組を持たせていただいたことや、がんで闘病中の叔母の介護もかねて、愛知に戻って学業と仕事、介護を両立する道を選びました。大学は推薦受験で面接と小論文を提出して、無事に合格することができました。

 

── 大学の授業は、かなりハードだったそうですね。

 

水野さん:大学生活って、もう少しゆるくてキラキラしたイメージを勝手に抱いていたんです。「ねえ、次の授業どうする~。単位は足りてるから、遊びに行っちゃおうか?」みたいな。

 

ですが、入学後、それがとんでもない勘違いだったと気づきました。考えてみれば、国家資格(管理栄養士)の受験に向けて勉強するわけですから当然なのですが、毎日、朝から夕方まで、びっしりと授業が組まれていて、まるで高校生活でした。

 

「栄養学」と聞くと、料理の献立づくりをイメージする人が多いと思いますが、授業の内容は、限りなく医学や化学に近いんです。栄養を分子レベルから学ぶので、化学式や原子記号が当たり前のように出てきて、パニック状態でした。

 

大学の学生ホールで休憩をしていたときの水野さん

私は商業高校出身で前提となる化学の知識がまったくなかったので、「化学式って何だっけ?モルってなに?単位のこと?」と、かなり焦りました。

 

── どうやって乗りきったのですか?

 

水野さん:とにかく出遅れた状態をなんとかしなければと、書店に走って中学生向けの高校受験のテキストを買いこみ、猛勉強をしました。原子記号の表をトイレの壁一面に貼って、にらめっこしていましたね。

 

授業でも毎回、最前列に座って先生の話を一言一句ノートに書きとめたりと、とにかく必死でした。大学1年生の初めのころが、一番大変だったように思います。

朝は学校で夕方は仕事「翌朝は新幹線で東京へ向かうことも」

── それほど忙しいカリキュラムだと、仕事との両立に苦労されたのでは?

 

水野さん:かなりハードでした。朝7時に起きて、午前中から夕方まで授業を受け、終わったら地元のテレビ番組等の収録に向かい、夜遅く帰宅。翌朝は始発の新幹線に乗って東京で仕事を済ませたら、すぐに地元に戻って、そのまま午後の授業を受ける、という日もありました。

 

平日は毎日授業があり、しかもほとんど必修科目。休むと単位が取れなくなってしまうんです。でも、生放送のレギュラー番組で、どうしても出席できない曜日があり、そこの単位だけなかなか取れずに苦労しました。

 

実験の授業では、クラスメイトにお願いをして私の分だけ残しておいてもらい、レポートだけはなんとか提出していました。事務所も私の思いを理解して応援してくれたものの、さすがにそこまでの忙しさは予想外だったようで、「大学って、もう少し融通がきくものかと思ってたよ…」と。完全に私のリサーチ不足でした。

 

結局、8年かけて2019年に卒業し、管理栄養士の資格を取得することができました。終わったときは本当にホッとしました。それまで仕事上の制限があったので、「これでやっと東京に戻れる」という気持ちが強かったですね。

 

大学の実験で白衣を着ていた水野さん

── 8年間もモチベーションを保ち続けるのは、大変そうです。途中で「もういいか」と、あきらめそうになったりしませんでしたか?

 

水野さん:ふつうに現役で入学して、学業1本の生活だったら、途中で挫折していたかもしれません。すでに仕事をしていて、勉強や学校が生活のすべてではなかったから、プレッシャーを感じずに済んだ部分もあるのかなと思います。

 

こう言うと語弊を招くかもしれませんが、私にとっては、壮大な習いごとの延長という感覚があって、「やらなくちゃいけないもの」ではなく、「自分で好きでやっているもの」だったので、モチベーションは下がることなく、長く続けていけたのでしょうね。

 

8年間で実感したのは、“知りたい”、“学びたい”、自発的な気持ちでのぞむ勉強は、吸収力がまったく違うということでした。

 

以前、お仕事で漢字検定1級にチャレンジする企画に参加させていただいたのですが、なかなか頭に入らず、苦しんだことがあるんです。体を動かしているわけではないのに、脳を使いすぎてカロリーが消費されたのか、どんどんやせていく経験をしました。

 

「なんとか覚えなくては」と焦りから追い詰められ、寝ていても、口から漢字がザラザラと出てくる不気味な夢にうなされたほど。吸収できない焦燥感やストレスを痛いほど感じていたのですが、そのときと比べたら、時間がなくて追い詰められているのに、すごく楽しかったんです。難しい分野があっても、「なるほど、これにつながっているのか!」と、どんどん吸収できる。不思議な感覚でしたね。

 

── そうなのですね。どんな工夫をされていたのですか?

 

水野さん:「苦手な勉強は、好きなことに即落とし込む」という方法で覚えていました。私は化学に少し苦手意識があったので、それだけを勉強するとうまく頭に入っていかないことも。だから、計算の仕方や原子記号などわかったら、それを今度は、自分が興味を持っている栄養のほうにすぐに結びつけて考えるんです。

 

例えば、「タンパク質には必ず窒素が結びついていて、それが体内で分解結合をして肉に変わっていくのか。なるほど、だから食べすぎると、体に変化が起きるんだな」と、イメージします。すると、勉強というより、彩り豊かな知識として、自分のなかに物語のような形で残っていく。そんなふうにしながら、苦手を得意に変えていきました。

最初は気をつかっていた同級生「1か月たったら激変!」

── 10歳以上年が離れたクラスメイトとは、どんなふうにコミュニケーションをとっていたのですか?

 

水野さん:入学当初こそ「水野さんですよね…?いつも見ています」と、敬語を使われ、距離を感じていたのですが、ゴールデンウイークが明けたころには、「ね~ね~、ゆうちゃんさ~」と、呼び方も変わっていました(笑)。

 

みんなで一緒にハードなカリキュラムを勉強するので、仲間意識が芽生えて、本当に高校のクラスメイトのようで楽しかったですね。授業が終わった後に、みんなでお茶をしたり、誰かのバイト先に遊びにいったり。休日もよく一緒に出かけていました。いまでも連絡をとりあっている子もいます。

 

── 学びを通じた仲間は一生の宝物ですね。年齢差を超えて打ち解けられるのは、他人に対して壁をつくらない水野さんの人柄だなと感じます。

 

水野さん:ありがとうございます。ただ、単に、大人になりきれていないのかもしれません(笑)。学びの喜びを実感しながら、クラスメイトとも楽しく過ごせた大学時代は、私にとってかけがえのない宝物です。

 

PROFILE 水野裕子さん

1982年、愛知県生まれ。1998年、SONY乾電池のキャンペーンオーディションに合格し、芸能界デビュー。「王様のブランチ」(TBS)、「世界バリバリ☆バリュー」(毎日放送)「ザ・フィッシング」(テレビ大阪)など数々の番組の出演。「KUNOICHI」などのスポーツバラエティ番組で活躍し、芸能界女性No.1アスリート”の異名をとる。釣り番組では国内外へのロケも多数。現在はNBA関連の番組やイベントでも活躍中。

 

取材・文/西尾英子 画像提供/水野裕子