沈むとわかっている船に乗り続けるのはおかしいと憤る妻、愛着ある船なのだから最後まで見届けたい夫。その船が自分たちの生活を支える「会社」だったら、どうでしょう。理解しあえそうでしあえない、そんな夫婦のズレが見えてきます。
「実家からお金を借りて」って何言ってるの?
結婚して16年、14歳と11歳の子どもがいるミチコさん(46歳・仮名=以下同)。3歳年上の夫は、ここ半年ほどほとんど給料をもらわずに働いています。
「夫の勤務先の業績が悪くて、“このままだと会社が潰れるかもしれない”と聞かされたのが半年前。すぐに給料が出なくなり、会社を去っていく人が続出したそうです。早く辞めた人には退職金も出たようなので、夫にも“そうしてほしい”と言ったのですが、夫は『今、オレが辞めるわけにはいかないよ』と。そのことでずいぶんケンカもしましたね」
ミチコさんには、夫の気持ちがまったくわかりませんでした。一番大事なのは家族の健康と暮らし。コロナ禍において、ただでさえ彼女のパート仕事も一時期は自宅待機になるなど大変な日々なのです。それを夫もわかっているはずだと思っていました。
「“今月も赤字だよ。これだけ貯金をおろした、このままだと暮らしていけない”と訴えたんですが、夫は『悪いけど実家からお金借りてくれない?』と。いい年して実家に頼るわけにもいかないのに…」
自分を救ってくれた社長を裏切れない夫
夫が会社を見捨てることができなかったのは、若い頃から社長に惚れ込んできたから。実際、社長のおかげで夫は「社会人として成長できた」という思いがあったようです。
「夫は母子家庭で育ちました。高校卒業後に就職したものの、どこか世をすねたようなところがあって、人間関係がうまくいかず、仕事が長続きしませんでした。腐って悪い仲間とたむろする日々が続いていたとき、声をかけてくれたのが社長だったそうです」
社長は中学時代の友人のお兄さん。友人が彼を心配して、10歳年の離れたお兄さんに相談してくれたようです。夫はその社長に勧められるままに入社し、一生懸命働いてきました。だからこそ、社長を裏切れないと夫は思っていたのです。
「結婚前も後も、そんなことは聞いたことがありませんでした。ただ、夫が会社を愛する気持ちはわかっていた。とはいえ、“現実を見てよ”が、私の本音でしたね。いくら社長が好きでも会社を大事に思っていても、沈むのがわかっている船なら逃げ出さなければ命はないんですから」
妻はあくまでも客観的で現実的です。
「社長も社長ですよね、潔く倒産したほうがいいような気がするんですけど。そう言ったら夫は涙ぐみながら怒っていましたけど」
社長もいろいろ手を尽くしているようです。夫は業績がよくなるまでは給与はいらないと自ら言ったこともわかってきました。
「それでも社長のほうから今月はお米代くらい出すと言われたと、つい先日、夫は嬉しそうでした。生活のためにはどうしようもなく、私は今、早朝のお弁当屋さんのバイトと昼間のパートの掛け持ちで働いています。それでも食べていくのがやっとです」
妻は仕事を掛け持ちし、ケンカも絶えず…
夫の仕事は現在、多忙なわけではありません。ミチコさんとしては平日に時間があるならハローワークに行ってみるとか、夜か週末だけでもアルバイトをしたらどうかと思い、夫に話してみました。
「すると夫は、『社長が会社のことで必死な時に自分だけそんな身勝手なことはできない』と。夫は社長とともに金策に走り回っているようです。だったら、せめて週末だけでも何かお金になることをやってほしいと言ったら、『きみはお金さえあればいいのか』と怒りだして。でも夫は社長ではないし、いい社長でも倒産するときは倒産する。“現実をしっかり受け止めてよ”と怒鳴ってしまいました」
夫はプイと横を向き、それからあまりしゃべらなくなりました。夫婦の気持ちがどんどんすれ違っていくのをミチコさんは実感しています。
「ただ、私ももう疲れ果てていますから、夫の会社や社長への愛情は理解しつつも、“その愛情を家族に向けてほしい”思いが強くなってきているんです」
どんなときも家族のことを最優先してほしいと思う妻と、自分を立ち直らせてくれた恩義を返したい夫の思いは、なかなか一致することはありません。