最近は元首相の発言としても注目された「わきまえる」という言葉。物事の道理を心得るという意味がありますが、誰が作った道理かによって、私たちの生き方や振る舞いに大きな影響を及ぼします。評論家として、女性のジェンダー論にも広く発言をしてきた樋口恵子さん(89)はその言葉をどう捉えているのでしょうか。

樋口恵子さん

わきまえてきたから、私は長持ちした

── 樋口さんは30代で当時「婦人問題」と呼ばれたジェンダー論の研究会に所属され、幅広く発言してきました。そう言う意味では「わきまえない」、強い女性の代表格というイメージがあります。

 

樋口さん:

そういうイメージがあるかもしれませんが、私は要所要所でわきまえてきた人なんです。40代で自治体の委員に任命された際も、隣席の男性委員さんに対してはきちんとした礼儀は絶対にはずさないようにしました。

 

挨拶は丁寧に、にこやかに。やり合う時はやり合うが、「ご専門の先生がおそろいのところでは、素人考えかもしれませんが、切実に思ったことをお伝えします」と相手を立てて話してきました。

 

「わきまえる」という言葉は、迎合的、言うことを言わないといったイメージがあります。特に元首相の発言以来、その印象が強い。

 

たしかに遠慮、妥協という意味もあると思っています。しかし妥協は度胸がないとできません。いい妥協をして物事を前に進める。戦争の停戦協定だって妥協がなければできないでしょう。突っぱねるばかりが、本当の強さではありません。「わきまえる」は、いい面と迎合的な面と両義性のあることばです。ときに「蛮勇」をふるって発言するときのためにも「わきまえて」おくことが大切です。

 

── たしかに、「わきまえる」という言葉も「自らの意思を貫くために、あえてその社会の常識を尊重する」と考えると、これまでのへりくだったイメージと変わりますね。

穏やかに、でも意思を通す力

樋口さん:

私がわきまえることで本当の目的を達成すると知った原体験があります。昭和35年ごろ、私が経済関係の研究所で臨時社員として働いていた時のことです。

 

職場の女性たちはみんな独身。なぜなら、当時多くの職場で女性は入社時に「結婚したら退職します」と念書を出さなければならなかったからです。

 

そんな時、一人の女性が結婚しても経済的に苦しいため、勤めたいと訴え出ます。もちろん断られますが、それをまわりの女性たち20人ぐらいが支えて、上司の家に朝に夕に頼みに訪れました。決して怒鳴ったり、わめいたりはせず、静かに「有能な女性を活かしてあげてください」と話していきました。

 

結果、2、3月ほど経った時、その女性は嘱託職員となったけれど、待遇はそのままで仕事が続けられることになりました。

 

私は息をのんで見ていました。女性たちのおだやかだけど、あきらめず、みんなで考えて正論を発信しながら要求をかちとる力を学びました。

 

若いころ、よく女性同士はライバル心を持ったり、お互いを変な目でみたりすることがありますよね。また、地位のある女性でも自己嫌悪を含めて女性であるということで自分や人を信頼しない人もいます。けれど、私は女性同士の団結、信頼関係を若い時に見たので、女性を心から信頼しています。この時期、同性への信頼感を持てたことも私の力となっています。

 

── 当時と比較すると、私たち女性が働くということが当たり前になり、社会環境は好転しました。けれど、いまだに職場のジェンダーギャップなどが根強いところも。この時代に、私たちが職場で自分たちの考えを主張する場合も、やはり「わきまえる」べきでしょうか?

 

樋口さん

そうですね。気負わずに、おだやかに発言した方がよいと思います。ここは引けない、ケンカ時という時に力を発揮するために、普段は感情的にならず冷静に。そして、いざという時に言えるように、理論的なことも現実的なこともしっかり勉強しなくてはいけません。思い付きで発言してはいけないのです。

 

── そうしたわきまえかたは、男女問わず、仕事を円滑に進めるうえでも必要なスキルなんでしょうね。

 

Profile 樋口恵子さん

1932年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。時事通信社、学習研究社、キヤノン株式会社を経て評論活動に入る。NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長、東京家政大学名誉教授。内閣府男女共同参画会議の「仕事と子育ての両立支援策に関する専門調査会」会長、厚生労働省社会保障審議会委員などを歴任。著書に「老~い、どん!」「老いの福袋」などがある。

取材・文/天野佳代子