義理の両親との同居生活も十数年が過ぎた我が家。前回の「
嫁が寝込むと義母は張り切り、義母が入院すると義父はおろおろする」では、三世代同居の最大のメリットは、家族の誰にもピンチヒッターがいるという安心感だよね、というお話をしました。
しかし…その安心感、もしかしなくても表裏一体ではないですか。いつも家に誰かがいる(主に義父母)というのは本当に安心感だけなのか?そんなわけないだろ?と、この連載を読んでくださる方ならばきっと思われるのではないでしょうか。
自由と安心はトレードオフだと思っていたけど…
確かに、同居嫁である私自身としても、ほとんどいつも義父母のどちらか、あるいは両方が家にいるというのは、正直かなり…鬱陶しいのも事実です(ここ小声でお願いします)。
私は核家族で暮らす気楽さを手放す代わりに、同居のメリットを手に入れたのかな、と思っていた時期もありました。自由と安心はトレードオフなのかな?と。
実際、子どもがまだ小さなころは、自分ひとりの自由時間が欲しくても、義父母の目を気にしてなかなか踏み切れなかった時期がありました。決して面と向かって責められるわけではないのに、なんとなく後ろめたい気がしていたのです。
自由になるためには「価値観のレスリング」を避けて通れない
でも、堂々と一人で遊びに出たりするようになった今になってつくづく思います。たとえ夫と子どもたちだけの4人で暮らしていたとしても、今と比べてそこまで自由でいられただろうか?と。
夫や子どもたちも、義父母よりは身近だとはいえ、結局は自分とは違う考え方をする別の人間です。核家族であったとしても、毎日の生活や子育てで、さまざまな家族の課題は訪れます。当時の私が、そういった課題を一人で受け止め、もしくは夫や子どもたちと話し合ってスッキリ解決できたとは到底思えないのです。
家族という他人の集合の中で話し合い、ぶつかり合うこと、それはいわば「価値観のレスリング」です。家庭というリングの中で取っ組み合って、何とか目の前の共通の問題を乗り越えていかなければならないのです。
闘いですので、当然傷つくことも、傷つけることもありますよね。できればやりたくない、でもやっぱり、そこそこ幸せな生活を勝ち取っていくためには、面倒だけど避けては通れない。
そんな時、関わる人数が多い方が…つまりは大家族で暮らした方が、問題を分かち合うことができ、ラクになる側面があるのでは?と最近は思うのです。
もちろん、家族の構成員が増えることによって問題自体も増えていきます。さらに問題を家族で分かち合う作業も、調整役になるとなかなか大変なものです。人によって、同居生活に向き不向きはあるだろうなと思います。
分かち合うことで生まれる不自由と自由
結局、三世代同居をそれなりに幸せにやっていくのに必要なことは、自由を犠牲にするというよりも、核家族よりも大きな単位の集団に、それぞれの抱える問題をオープンにして分かち合っていけるか、という覚悟の問題なんじゃないか、と最近では思います。
分かち合うことで生まれる不自由さも、また新たに生まれる自由もあります。それは私ひとりだけではなく、家族みんなに訪れる変化です。
家族という他人の集団の中で、みんなが少しずつ譲り合いながら、それでも全員が自分らしく生きていくことを目指すんだ!と覚悟を決めてから、私は同居生活を、ずいぶん楽に暮らせるようになった気がしています。