産後すぐのワンオペ育児に底をつく貯金、そして産後うつ症状──。行政窓口でも突き放され、「もう消えたい」と極限まで追い詰められた元江東区議の三次由梨香さん。周囲が見えなくなっていた彼女の目を覚まさせたのは、友人の温かい支援と、あの日自宅で目にした光景でした。密室育児から抜け出し、人に頼る大切さを知ったあの日を伺いました。

やがて元夫はほとんど家に寄りつかなくなった

三次由梨香
元江東区議会議員の三次さん

── 三次さんは元江東区議会議員として、少子化対策や不登校支援など、子どもに寄り添う政策に注力されてきました。そうした活動の背景には、ご自身の子育てにおける壮絶な経験があったと伺っています。

 

三次さん:私は23歳で長女を出産したのですが、振り返れば妊娠期から試練の連続でした。最終的には離婚した夫に出産育児一時金40万円すら持ち去られ、産後うつ症状にまで追い詰められることになります。

 

当時は周囲の友人の多くが若くして結婚・出産していたこともあり、22歳だった私は「早く子どもを持たなければ」と強い焦燥感を抱いていました。その後、当時付き合っていた彼との間に子どもができたことがわかり結婚。まだ結婚に慎重だった夫に、「出産に関わる費用はすべて自分で工面する」と約束しました。

 

──「出産費用を自分ですべて出す」というのは、相当な覚悟と負担を伴ったのではないでしょうか。

 

三次さん:それまで不動産や飲食の仕事で必死に貯めたお金がありましたし、周囲の友人たちも重いつわりに悩まされず健康に過ごしていたので、自分も出産直前まで働けるだろうと踏んでいたんです。

 

でも現実は厳しく、妊娠2か月目から横になっていても嘔吐が止まらない重いつわりに悩まされ、仕事を辞めざるを得なくなりました。さらに妊娠後期には切迫早産と診断され、自宅で療養することに。その間はトイレやお風呂以外は安静にする必要がありましたが、その時期の夫は身の回りの世話を進んで引き受けてくれるなど協力的でした。貯蓄を切り崩しながらでも、通院や出産費用はどうにかまかなえる見通しが立っていたのです。

 

── 切迫早産の危機を乗り越えての出産だったのですね。

 

三次さん:そうですね。無事に長女を出産することができました。ところが、出産を境に、夫の態度が以前とはまるで別人のように一変したのです。

 

かつては温厚そのものだった人が、赤ちゃんの泣き声ひとつで「うるさい」と激昂する。その豹変ぶりに「本当にこの人は私の知っている夫なのか」と戸惑うしかありませんでした。当時はその理由がわからなかったのですが、今思えばお互いに育児ノイローゼのような状態だったのかもしれません。やがて夫は、ほとんど家に寄りつかなくなりました。

離婚に応じてもらえない…不安を覚えた瞬間

── 産後の回復期に旦那さんが家を出てしまい、経済的にも先が見えない状況だったのでは。想像を絶します。 

 

三次さん:乳児を抱えた睡眠不足も限界でしたが、何より身動きが取れず働けないまま、手元の貯金がどんどん消えていく恐怖が常にありました。家を出た夫は、私が寝静まった隙に入浴や仮眠をとりに帰ってきたようです。ある日、気づくと食卓に彼が使ったタクシーの領収書が置いてありました。私は日々の食事すら切り詰めて、いつもお腹が空いているのに、夫はタクシー移動する余裕がある…家族に対する思いやりを欠いた行動に、虚しさとショックを覚えました。

 

── その出来事が離婚への決定打になったのでしょうか。

 

三次さん:はい。ただ、この状況にもかかわらず当初、夫は離婚には応じないと頑なでした。実は、このときが最も不安を覚えた瞬間です。

 

籍を入れている以上、「夫は就労可能で、妻が育児に専念できる家庭」と見なされるので、保育園に預けることが難しくなります。預け先がなければ再就職も叶わず、困窮状態から抜け出せない。母子の生死に関わる問題に、目の前が真っ暗になりました。

 

── 身動きすら取れず、追い詰められていったのですね。

 

三次さん:根気強く説得をして、どうにか離婚は成立しました。ただ、さらなる衝撃が。国から支給される出産一時金の40万円を、あろうことか元夫は引越し費用に充てていたのです。

 

出産費用を全額負担したのは私です。しかし、そのときの給付金の振込先は原則「世帯主」の口座でした。当然、そのお金は渡されるものだと思っていたのですが、元夫は当然のように自分で使いきっていました。これにはもう、怒りを通り越して、言葉を失いましたね。

 

世の中にはモラハラやDVなどがあり世帯主に振り込みがされて困る人が私以外にもいるはずでは…という気持ちになり、これが政治家として国の制度を変えたいと思ったきっかけのひとつですね。ちなみに、その40万円は後に、元夫の父親が肩代わりをし、分割で返済してもらいました。

暗がりの自宅で見た光景に、目が覚めた

三次由梨香
出産前の三次さん(右から2番目)と友人たち

── たび重なる産後の激動のなかで、自立に向けて前を向くには並大抵ではないエネルギーを要したかと思います。

 

三次さん:もちろん自立したい一心でしたが、相次ぐ精神的ショックで心身ともにすり減り、離婚成立後も産後うつ状態が抜けませんでした。「このままでは生活が立ちゆかない」と、すがる思いで行政窓口へ生活保護の相談に行ったんです。

 

でも、そこで返ってきたのは「あなたは若いから働ける」というひと言でした。もちろんそうだと思うのですが、限界まで追い詰められていた当時の私には、突き放すような言葉に聞こえ、言葉を失いました。絶望のあまり「この子を抱えたまま、いっそ消えてしまいたい」という思いがよぎるほど。

 

それでも私を繋ぎ止めてくれたのは、友人たちの支えです。交代で食事を届けてくれたり、「子どもは見ているから、少し外の空気を吸っておいで」と、私をひとりにしてくれたり。温かい食事も沁みましたが、何より救いになったのは、このひとりになれた時間でした。赤ちゃんと離れてひとりになることで、混乱していた頭が整理され、落ち着きを取り戻していったのです。

 

── そのひとりの時間が、自分を取り戻す転換点になったのですね。

 

三次さん:そうですね。ある日、散歩から戻ると、部屋の明かりが消えていて、一瞬「子どもの身に何か起きたのでは」と血の気が引きました。急いで部屋に入ると、育児経験のない友人が必死にあやして寝かしつけをしようとしてくれていたようで、娘を抱っこしながらゆらゆらあやしていたんです。わが子の愛おしさに改めて気づくとともに、友人の献身的な姿に胸を打たれ「このまま絶望に溺れてはいけない」と目が覚めました。

 

── まさに孤立を防ぐ命綱となったのですね。

 

三次さん:本当にその通りです。友人たちのおかげで前を向く勇気をもらい、疎遠になっていた実家に頭を下げ、身を寄せる決断ができました。その後も就労先と保育園の確保という「保活の壁」にぶつかるなど苦難は続きましたが、この一連の当事者としての葛藤が、のちに議員として制度改革に挑む原動力となりました。

 

当時は友人から散歩をしてきていいと言われても、その必要はないと思っていました。でも、母子分離をして体を少し動かすと、視野が広がりそれまでの自分は正常な判断ができていなかったことに気づきました。そこから気持ちも考え方も大きく変えられたので、もし似たような境遇で追い詰められている人がいるならば、少しでもいいのでお子さんから離れた時間を過ごしてみるのもいいかもしれません。

 

取材・文:酒井明子 写真:三次由梨香