全身全霊で戦う仕事に巡り合い何かがハマった

── 22歳のころですね。33倍の倍率の難関をくぐり抜けて試験に合格したそうですが、養成所の生活は厳しかったそうですね。

 

日高さん:それはもう厳しかったですよ。40年前ですが、女性は6人ひと部屋に押し込められていましたが、男性は女性に比べて部屋の人数に余裕がありました。男尊女卑がすごかったので、男性は大風呂やサウナがあるのに、女性は家庭用風呂を順番待ちして入るしかない。上下関係も厳しく先輩は絶対で、新人は有無を言わさず働かされました。

 

でも、自分には帰る場所がなかったし、選手になれば大金が動く世界。厳しくて努力するのが当たり前。そういう覚悟は早い段階からありました。

 

── 選手としてやっていけそうな手応えはありましたか。

 

日高さん:最初は本当に下手くそでしたが、暇さえあれば練習に行っていました。次第にだんだん勝てるようになってくると、もう、楽しくて楽しくて。優勝すると、その後2、3日ずっと幸せでした。もともと賞金目当てで始めた仕事ですが、気づけばお金よりも勝つことが目的になっていました。

 

── 信用金庫も旅行業も経験した日高さんですが、何より選手生活が合っていたと。

 

日高さん:そうだと思います。63歳で現役を引退するまで、周りのサポートはもちろんのこと、何よりボートレーサーの仕事が大好きだったし、自分に合っていたんだと思います。信用金庫のように数字を緻密に合わせるとか、ツアーコンダクターのようにお客さんを誘導する仕事も素晴らしいです。でも自分はその仕事に熱中することはなかった。ボートレーサーもはじめから「これがやりたい!」と明確だったわけではないですが、実際にやってみたら、私はもともと負けず嫌いだし、わかりやすく順位が出る仕事が自分には合っていた。ひとつの場所で結果が出るまで頑張ることももちろん大切ですが、仕事には相性が合って、私はボートレーサーの仕事を結果的に長く続けることができました。

 

たしかに怪我のリスクとは隣り合わせですが、それ以上の達成感や目に見える喜びが大きかった。何より「私にはこれしかない」という強い覚悟がありましたから、どんなにつらくても辞めるという選択肢は浮かびませんでした。

 

── その後は40年も第一線で走り続け、通算2539勝、生涯獲得賞金は女性歴代トップという偉業を成し遂げました。

 

日高さん:常に「どうすればもっと速く走れるか」を考え続けていました。偶然に導かれるように飛び込んだ業界でしたが、こんなにも長く情熱をもって走り続けられたことは本当に幸運だったと思います。

 

取材・文:阿部花恵 写真:日高逸子