退職後は単身ニューヨークへ「道は開ける」

──  世間的にみたら安定した地位を手放し、商社を退社後は単身ニューヨークへ渡りました。それはなぜですか?

 

Ryoさん:小学4年生のときに父の仕事の都合でイギリスに1年半滞在したことが大きかったと思います。現地のカトリックスクールに放り込まれて、初日から聖書を渡されて「読みなさい」と言われる生活が突然始まりました。英語がいっさいしゃべれなかったので、当然のようにいじめられ、つらい日々を過ごしました。ただ、多感な時期を欧米で過ごしたことで「日本の同調圧力が苦手」と感じるようになったんです。「とにかく海外に行きたい」と、まずはアメリカを見て回ったんですが、ニューヨークのエネルギーに惚れこみ、移住を決意しました。

 

──  仕事のあてはあったのでしょうか?

 

Ryoさん:まったくなかったです。ただ、当時は学生ビザが取得しやすかったので、夜間学校に通いながら、ニューヨーク大学の映画学部を目指しました。映画業界ならスーツを着る仕事からは離れられると思ったからです。でも最初は箸にも棒にもかからず落ちました。3回目でようやく合格。でもその時点で貯金がゼロになっていて…。

 

──  貯金ゼロでどうやって学費を?

 

Ryoさん:商社時代の先輩に「銀行の残高証明を出す間だけ、お金貸してください」って頼んだり、個人的にニューヨークのエンタメ情報をレポートする契約を日本の会社と結んだりして、なんとか学費を工面しました。「道は開ける」というメンタリティが確立したのはこのころです。一歩進めば見たことない景色が広がる。失敗したって別に命が取られるようなことはない、と。

離婚を経て52歳でコメディアンの道へ

Ryo Hayashi
英語は流暢だが、アメリカの舞台ではわざと日本語アクセントで登場して観客を掴むことも

──  大学を卒業してからは、音響エンジニアや映像制作講師を経て、スタンダップコメディアンを目指すようになりました。

 

Ryoさん:大学を卒業してからは映画業界でフリーランスの仕事や講師をして生計を立てていました。しかし何かが違う、僕は本当に長編映画を撮りたいのかな、と自問自答する日々が続いていました。

 

そんななか、自分が好きな映画監督にスタンダップ・コメディアン出身の人が多いことに気づきました。ウディ・アレンとかマイク・ニコルスとか。ニューヨークはスタンダップ・コメディの本場、何かヒントが見つかると思って、初めてNYでいちばん人気のコメディ・クラブ「Comedy Cellar」に足を踏み入れてみました。人種も性別も違ういろんなタイプのコメディアンたちが、ひとりずつ舞台に立ってはマイク1本を武器にジョークを言っている。笑えるネタもあれば、違和感を感じるネタもある。その笑いの多様性に衝撃を受けました。と同時に、もしかしたら僕にもできるんじゃないか、と。 

 

ニューヨークで出会い15年連れ添ったノルウェー人の妻と離婚したのもそんな時期です。結婚生活のなかで、家族や暮らし方に対する考え方のズレが少しずつ広がっていったことが、大きな理由です。落ち込んでてはいけない、何か新しいことにチャレンジしよう。ならば清水の舞台を飛び降りる覚悟でスタンダップにトライしてみようと。先ずはマンハッタンにあるコメディ教室に通い、試しに離婚の話をネタにしてみたら、大ウケで。「人を笑わせた!」というあの瞬間の高揚感は、もう忘れられません。

 

それ以来、毎日のようにオープン・マイク(公開練習)に通うようになって、もう、どっぷりハマっていきましたね。

 

──  ニューヨークでもトップ3に数えられる名門「ニューヨーク・コメディクラブ(通称:NYCC)」のオーディションにも合格されました。ここはアメリカでコメディアンを目指す人なら誰もが憧れる舞台だそうですね。

 

Ryoさん:全米から相当数の応募者があり、一度落ちるとその後は1年間、オーディションを受けられないなど、かなり厳しい世界なのです。私は約3年の下積みを経て2019年に合格しました。でも、受かってもメインのショーにはなかなか出られません。

 

いちばん出番があったのは「チェックスポット」という場所です。ショーが終わって、お客さんがお会計(チェック)をしているときに出て行って、笑わせる。みんな帰ろうとして集中力がないなかで、チェックの手を止めさせる。極めて難しい、トレーニングのようなスポットです。ただ、この経験がコメディアンとしての自信になりました。