「自費で交渉に!」と啖呵を切って商談をまとめ

──  韓国企業「サムスン」との取引を始めて成功させたこともあったとか。

 

Ryoさん:「辞める」ことを諦めたら、「新規事業開発部」に異動になりました。名前とは裏腹に出世コースから外れたクセのある社員が集められたような部署でしたね(笑)。そこでコンピューターのハードディスクを動作させるモーターを売り込むことになりました。そんなとき、当時は誰も知らない会社だった「サンセイ(三星電子)」、今のサムスン電子から引き合いがあったんです。

 

──  当時のサムスンは、今のような世界企業ではなかった?

 

Ryoさん:ほとんど無名でした。ソニーが天下だったころでしたから、当時の部長や仕入れ元の課長など全員に「そんなわけのわからない会社と商売するな!」と猛反対されたほどです。でも、掛け売りではなくキャッシュでの取引という好条件でしたし、「いける!」と直感で感じたんです(笑)。若造の生意気さで、「自費でも交渉に行きます!」と啖呵を切って、上司たちを連れてソウルに商談へ行きました。

 

──  現場での交渉はどうでしたか?

 

Ryoさん:約束をしてオフィスに行ったのに、目の前で相手の課長が新聞を読んでいました。対応してくれた部下が「課長は今忙しいので会えません」って…(笑)。上司たちからは「そら見たことか」という顔をされました。でも僕は「先方は自分たちのメンツを立てようとしているだけだ」と思い、渋ヅラのふたりを説得して30分待ちました。しばらくすると課長が新聞をたたんで、「じゃあ会いましょうか」と。結局、取引条件もよくてその後のビジネスも上手くいきました。

しかし「会社で泳ぐこと」に限界を感じて

Ryo Hayashi
大手商社時代のRyoさん。日本メーカーの代わりに中南米で日本車の売り先を探す仕事をいていた

──  仕事も順調だったのに、なぜ退職を?

 

Ryoさん:「会社で泳いでいく」ことに限界を感じていたんです。出世することにも興味がなかったですし、会社という組織の中で本当にやりたいことも見つからず…。サムスンとの取引で「新しい客を開拓した」ことは自信になりましたし、会社にも多少は恩を返せたかな、と。2度目の辞表を出したら、バブルが弾けていたこともあって、すんなり受け入れられました。 

 

── 「安定」を手放す怖さはなかったですか。

 

Ryoさん:怖かったのはむしろ「方程式」です。周りの同期が結婚して、家のローン、車のローン、全部会社が信用を付けて貸してもらえる。そうなるともう、一生会社にいなきゃいけない。その「会社に縛られる方程式」が自分には絶対に合わないと思ったんです。

 

──  身近な人から反対されたことは?

 

Ryoさん:父親からは「辞めるな。後悔するぞ」と言われました。実は61歳になった今でも「お前、商社にいたら今ごろは…」とずっと言われ続けているんですよ。だから「今ごろは定年退職して嘱託職員だっただろうね」って言い返すようにしています。もういい加減、心配してもらうに値しない年齢になったんだから、と(笑)。