アイデンティティに揺れて下した決断

── 大変だったのですね。親に不安や不満をぶつけたりはしなかったんですか?

 

逸見さん:とくに話はしなかったですし、(親から)何かを言われたこともなかったですね。ただ、自分の中に溜まっていくストレスは相当あって。学校のサッカー大会でゴールを決めた瞬間に、側転からバク宙をしたりとか、わざと余計なことをして暴れることで、エネルギーを発散していました。でも、そこからグレたり、人に暴力を振るような方向にはいきませんでした。

 

── 側転にバク宙。ある意味、健全な発散のしかたですね(笑)。

 

逸見さん:当時、父がフジテレビでニュース番組のキャスターをしていましたから、僕が問題を起こして家族の不祥事として、父にニュースを読ませるわけにはいかないじゃないですか(笑)。父からはつねに「人様に迷惑をかけるな」「思いやりを持って接しなさい」と家訓のように言われていましたし、その教えの刷り込みが強かったんだと思います。

 

── その後、都立高校に進学されますが、そこでも「逸見政孝の息子」という名前はつきまとったそうですね。

 

逸見さん:入学式の日、校門のところで先輩たちが待っていて、「お、来た来た!」と、大歓迎されました。中学のときとは違って「ウエルカム」な雰囲気で不思議な感じでしたが、私自身は注目されること自体が苦痛でしかたなかったんです。「みんなが見ているのは逸見政孝の息子であって、俺じゃないし…」という反発心がありました。休み時間になれば他クラスの生徒や上級生が興味本位で見に来る。その好奇の目にさらされることが本当につらくて、かなり葛藤しましたね。

 

── 自分のアイデンティティを確立したい時期に、「自分自身」を見てもらえないもどかしさ。15歳で高校を中退し、イギリスへ留学されたのはそうした理由からだったのでしょうか?

 

逸見さん:大きな理由のひとつですが、英語を学びたいという気持ちがありました。お会いしたことがあったジェームス三木さんの息子さんは年齢が近いのに英語がすごく上手で、「自分もあんなふうにしゃべれたらカッコいいな」と憧れていたんです。

 

留学を決めた背景には、父が英語を話せなかったこともあります。学力(父は早稲田大学卒)でも他のことでも、父の存在は大きすぎて、とてもかなわない。でも、「父ができない英語を自分が身につけて、超えてやる」という対抗心がありました。留学先のイギリスでは、初めて「Taro」というひとりの人として扱われ、心が解放される感覚もありました。