「ゆりかご」に託してくれて「ありがとう」
里親の両親には当時も今もずっとよくしてもらっていますが、実母の存在がわかるまで、自分がどうやって生まれてきたのかわからない不安や、言葉にできないもどかしさを抱えていました。親戚は、ゆりかごの扉を開けた人しか持っていない「お父さんへ お母さんへ」という手紙を持っていたようで、私の親戚であることは間違いないようです。親戚が手紙を持ち続けてくれたことで、「ゆりかご」に預けた親戚と、「ゆりかご」に預けられた私の存在が一致し、生い立ちがわかったうれしさと同時に安心したことは覚えています。
親戚の人には会ったことないので、なぜ私をゆりかごに預けたのかわかりません。たぶん私を育てることが難しくて、私の命を「ゆりかご」に預けたんだと思いますが、身元がわかってホッとしたし、「ゆりかご」に命を繋いでくれたことはありがたいと思っています。
その後、自分を産んでくれた人を知りたいと思って、父にお墓参りをしたいと伝えると、その年の夏休みに連れて行ってくれました。
お墓参りは全部で3回行っています。熊本地震が起きる前、小学6年生のときに1回。実母が交通事故で亡くなった場所がわかった中学3年生のときに1回。それから大学1年生のときです。そのころには宮津家と養子縁組をしていたので、その報告を含めてお墓参りに行きました。
── 小学2年生のときに宮津さんの正式な名前がわかりましたが、その後も「宮津航一」の名で過ごされていますね。
宮津さん:周りには公表していなかったので、学校に許可を取ってそのまま「宮津」の通称名で過ごしていました。ただ、困ったのは小学校の卒業式。卒業証書に名前を書いてもらうんですが、卒業証書は戸籍名で記載されることになっていたので、学校で使用している通称「宮津航一」ではない、本籍名で記載されました。
── 友達に気づかれずに済んだのですね。人とは違う生い立ちを経験して思春期を迎え、反抗期などはありましたか?
宮津さん:よく聞かれるんですけど、たぶんなかったんじゃないかな、と思います。宮津家に入ったときから自分を特別視することなく、いいときは褒め、そうじゃないときは怒ると、普通に接してくれましたし、何より常に愛情を感じていました。
小・中学校は自宅から遠く、よく送迎してもらっていたので、会話をする時間が自然とありました。高校は陸上部に入りましたが、両親がよく応援に来てくれてうれしかったですね。家には僕以外にも里子がいていつもにぎやかだったし、孤独とか寂しさをあまり感じることはなく、反抗する場面もなかったんですよね。中学校では生徒会長や応援団長、陸上部では主将をしていたので、学校生活が充実していたんだと思います。
たしかに私は人と違う生い立ちをしています。でも実母の存在がわかったこと。その後も自分が寂しい思いをせずに安心して過ごせる環境を作ってくれた「ゆりかご」や里親家族にはとても感謝しています。今は「ゆりかご」の当事者として名前を公表して、当事者だからわかることを発信しています。
取材・文/松永怜 写真提供/宮津航一