母子家庭で育ったタレントのユージさん。小学校時代にひどいいじめにあっていた反動で、中学・高校時代はヤンキーに。荒れた生活を送りながら、モデルや俳優として芸能活動もしていました。子どもを育てるため仕事に邁進する母親と、周囲に頼ることができず寂しい思いを抱えて育ったユージさんとの間で感情がすれ違い、確執が深まった末にある日、警察沙汰になるほどの事件が起きてしまいます。

思い詰めた母が包丁を持って泣き叫び

ユージと母
幼少期のユージさんとお母さん

── 父親はアメリカ人、母親が日本人で、両親の離婚を機に5歳で母と日本へ来たユージさん。小学校時代は日本語がうまく話せずいじめられ、怖がられる人になればいじめられないだろうと中学・高校ではヤンキーになったそうですね。14歳で芸能活動を始めるもバイク事故でキャリアが中断し、そのころから母親との確執がさらに深まったとのことですが、ケンカが増えたり、逆に会話しなくなったりしたのでしょうか?

 

ユージさん:母とは顔を合わせるとケンカになるので、高校に入ってから建築現場で仕事をしてお金をため、1年生の終わりごろにはひとり暮らしを始めたんです。通っていた高校は埼玉にあったのですが、東京の地元仲間と遊びたかったので、学校の近くじゃなくて地元に部屋を借りました。中学生からモデルや俳優の仕事をしていましたが、それより建築現場の稼ぎが大きく、家賃や生活費以外にもバイクを買ったり友達と遊んだりするお金もありました。

 

仕事のために学校に行かない日もあり、母親からはいつも怒られていましたし、離れて住んでいるのに「まだ家に帰ってきてないの?」「何時だと思ってるの?」と口うるさかったんですよね。おそらく母としては生活がどんどん荒れていく僕を見てつらかったんだと思うんですけど、僕も思春期で反抗的な態度を取り続けていました。その結果、母が僕の家に包丁を持って乗り込んでくるという事件が起きました。

 

──  え、包丁を持って?

 

ユージさん:はい。高校3年生のとき、ひとり暮らしの家で僕が寝ているときに包丁を持って入ってきて、馬乗りになっていたんです。なんか体が重くて苦しい、金縛りなのかな、と気配を感じた僕がパッと目を開けると母親が僕の上に乗っていて、一瞬夢か現実かわからないくらいでした。無意識に飛び起きて母を押しのけると、泣きながら「あんたを殺して私も死ぬ」と叫んでいました。

 

騒ぎが大きくなって警察沙汰になり、事情聴取のために警察署へ行きました。事情はどうあれ、包丁を持っているほうが被疑者ということになり、僕は被害者。警察官からは「お母さんを逮捕することもできます」と言われましたが、いくら母親が憎くてもさすがに逮捕まではしてほしくないという気持ちになりました。ただ、もう顔も見たくないと僕が言ったので、母親に「接近禁止命令」が出て、そこから母は僕に会えなくなりました。

 

── 包丁を持ったお母さんは、日ごろのユージさんに対する不満や不安の積み重ねが爆発したような感じだったのでしょうか?

 

ユージさん:きっかけはバイク事故かもしれません。その1年前にバイクに乗っていた際、運悪く車にはねられるという交通事故にあいました。足の骨が飛び出て切断するかどうかという大けがを負って1年間入院していたんですよね。そんな大けがから無事に生還したにも関わらず、退院後も学校へは行ったり行かなかったりして、将来も考えずに仲間とつるんでいる僕を見て思い詰めたんだと思います。しかも、その事故のせいでオーディションに受かっていた『ごくせん2』を急きょ降板していたので、多くの人に迷惑をかけたのに、まだ目が覚めないのか、といったような心境だったと後で聞きました。

 

── 大人になり、父親になって振り返ると、当時のお母さんの行動をどう感じますか?

 

ユージさん:ずいぶん心配かけて申し訳なかったし、つらかったと思います。アメリカにいる父方の家族は裕福だったのに、離婚をして日本に僕を連れ帰ってきて、アメリカ人との結婚を反対していた実家には頼れないし、どうにかひとりで息子を一人前に育て上げようとしてくれた。必死でがんばってくれていたのに、がんばればがんばるほど僕と間の溝は広がるばかりだったので。

 

そのいっぽうで、息子を立派な大人に育てることにとらわれて、理想の人物像を僕にあてはめようとしていたという気もします。シングルマザーだった負い目もあると思いますし、お金を稼いで最低限の生活や僕の教育に注ぎ込むことに必死過ぎて、母も周りが見えなかった部分があったのではないでしょうか。

 

そのため、仕事ばかりで家にいなかった母にはいじめられていることも言えず、ずっとひとりで寂しい思いをしました。いじめっこを見返したくてヤンキーになり荒れていった僕も間違った方向に進んでいたのかもしれませんが…。自分も父親となった今となっては、当時の母の行動が彼女なりの愛情表現だったということも、母がそのときどれほどの覚悟を持って僕の家に乗り込んできたかも、痛いほど理解できるようになりました。