ランドセルを捨てられても相談する相手がいない

── 名前をからかわれる以外にも、いじめのようなことはあったのですか?

 

ユージさん:数えきれないほどありましたよ。当時はハーフが珍しかったですし、「ガイジン」「ばい菌」みたいな言葉は無数に投げかけられました。「英語でこれ何ていうの?」とことあるごとに聞かれ、「歩く辞書」扱い。電車通学だったので「機関車なのに電車乗るなよ」と言われて窓からランドセルを投げ捨てられたことや、ボコボコに殴られたこともあるし、壮絶ないじめを受けてきました。帰宅しても誰にも何も言えないし、ひとりで泣いて泣いて、涙と一緒に悔しい気持ちをどうにか流して乗り越える日々でした。

 

── 学校の先生にも相談しにくい状況でしたか?

 

ユージさん:暴力をふるわれたときに、僕も少しは抵抗するじゃないですか。そうすると相手が「あいつにやられた」と先生に告げ口をして、僕が先に手を出したことになっていました。先生が僕に話を聞こうとしても、日本語がうまくしゃべれなくて本当のことが伝えられないんですよ。イエスかノーかの答えしかできないから、「殴ったのか?」と言われたら正直に「はい」と答えるだけなので、いじめられているのは僕なのに「暴力はだめだ」と僕だけ怒られるようなことがよくありました。小学生の間は、何をしてもうまくいかなかった思い出しかないです。

 

── 何年生くらいから日本語での会話もできるようになったのでしょうか?

 

ユージさん:小学4年生になったころには、少しは会話ができるようになりました。5、6年生になると、みんなが言っていることはほぼ理解できていました。難しい言葉はとっさに出てこないけど、日常生活に困らない程度にはなりましたね。

 

── 日本語の上達とともにいじめが落ち着いていったのでしょうか?

 

ユージさん:いやいや、小学生の間はずっといじめられていました。ただ、僕もいじめっ子との距離の取り方や向き合い方がうまくなっていったし、友達もゼロではなくなったので、立場は弱いままでしたが悩む時間は減りました。

 

── 当時の周囲の大人の対応を振り返って、思うことはありますか?

 

ユージさん:先生には頭ごなしに怒ってほしくなかったです。母親に関しては、子どもは教育にお金をかければ勝手に育って勝手にいい子になると思っていた部分があるんじゃないでしょうか。仕事をして子どもをいい学校に通わせ、ごはんと布団を用意するのが愛情だと母は思っていたかもしれないですけど、それは生活のための努力で、子どもには伝わらないんですよね。

 

だったらお金はなくても抱きしめてくれたり、愛の言葉をかけてくれたり、つらいときに味方になってくれたほうが寂しい思いをせずに済んだんじゃないかと思うんです。母とはその後もいろいろと確執がありました。でもいまは仲がいいですし、孫もかわいがってくれています。

 

取材・文/富田夏子 写真提供/ユージ