「何のためにアメリカへ…」と自問自答するも

── 大学を卒業されてからアメリカに戻ったそうですが、当時はダンサーとしての収入のめどが立った状態だったのでしょうか?

 

池田さん:いえ、まだそんなレベルでは到底ありませんでした。しばらくは生活のために現地の雑貨会社で発送業務などをして働きながら、レッスンを受けてはオーディションに挑んでいたんです。でも、合格にはかすりもせず、まったく芽が出ない日々が続きました。そのうち、レッスンに行くのもオーディションに行くのも怖くなり、うつのような状態になってしまったんです。ダンスをせずにOL生活を送る毎日で、「何のためにアメリカに来たのか…」というような期間が4、5年続きました。20代後半は暗黒期だったと思います。

 

── 何が転機になったのでしょう?

 

池田さん:ある日、会社から帰ってきてテレビをつけると、以前、私と一緒にトレーニングをしていたダンサーがテレビで踊っていたんです。本当に傲慢で恥ずかしいのですが、当時は「私よりも上手くないし、華もない」と思っていた人でした。その子がテレビに出て輝いている、その現実にすごくショックを受け、過呼吸になるくらい泣いてしまったんです。でも同時に「私はつらくなって逃げてしまったけれど、この子は続けて努力をしてきたから、ここにいるんだ」と思い直し、「やるしかない!」と自分を奮い立たせました。

 

そのときは既に30歳で、ダンサーの「ゴールデンエイジ」と言われる20代後半は既に過ぎていました。スキルも人脈もなくなっていて、イチからやり直さなければならなかったので、最初は頑張ってもうまくいきませんでした。そんなときにアメリカ人のいまの夫に出会ったんです。

 

── 旦那さんとの出会いは力になりましたか?

 

池田さん:「できることはすべてやったつもりなのにうまくいかない」と悩みを打ち明けると、「まだ僕と一緒にはチャレンジしていないよね。僕とやったら、結果は変わるかもしれないよ」と夫が言ってくれました。ちょうどそのころ、シルク・ドゥ・ソレイユのダンサー候補になれるオーディションに出会ったんです。それまでハリウッドで受けていたオーディションとはまったく雰囲気が違い、温かみがあったことで一気に憧れが募り、再び自分を奮い立たせて入団を目指しました。 

 

── そこから、どのようにしてシルク・ドゥ・ソレイユへの道が開けていったのでしょうか?

 

池田さん:パフォーマーの候補者リストにはすぐに載ったのですが、そこから本採用されるまで6年ほどかかり、合計8回のオーディションを受け続けました。やっとの思いで「キュリオス」というショーのクララ役に選ばれたのが、2017年のことでした。