小学4年生のときに、発達障害であることがわかった漫画家の沖田×華さん。当時はまだ発達障害への理解が浸透しておらず、診断を受けた後も、周囲からの心ない対応に傷ついていたそうです。しかし、中学に進学し理解ある先生と出会い、「天地がひっくり返るほど」の経験をしたそうです。(全3回中の2回)
「学校では手に負えない」と精神疾患を疑われ

── 沖田さんは、小学4年生のときに検査を受けて、発達障害の一種である「学習障害(LD)」と「注意欠陥多動性障害(ADHD)」だと診断されました。小学1年生のころから、忘れ物の多さやコミュニケーションへの苦手が目立ち始めたそうですが、発達検査を受けるきっかけになった出来事はあったのでしょうか。
沖田さん:小学1年生のころから、学校の先生は「この子は、何かおかしい」と感じていたようでしたが、私が小学生だったのは今から約40年前のこと。当時はまだ「発達障害」の概念が教育現場に浸透しておらず、「難聴が原因でぼんやりしていたり、勉強についていけていないのではないか」と指摘を受けたことがありました。
すぐに病院で聴力検査を受けましたが、聴力については「異常なし」。しかしその後、「この子は精神疾患に違いない。学校では手に負えないから、精神科病院で治してきてほしい」と、先生が母に話したそうです。
これには母も「そんなバカな」と驚いたとか。「算数やひらがなは苦手だけれど、得意な科目もあるし、家の中ではよくしゃべる。この子が精神疾患のはずがない」と思い悩んだ母は、私が小学4年生のときに、地元にある発達検査を行っている施設にたどり着いたそうです。そこで検査を受けたところ、発達障害の一種である「学習障害(LD)」と「注意欠陥多動性障害(ADHD)」だと判明しました。
── 発達障害だとわかってからは、日常生活や周りからの対応に変化を感じましたか?
沖田さん:特に変化はありませんでした。当時は、現在のような発達障害の特性を支援する「療育」の制度は整っておらず、いつもと同じ日常が続きました。母は、検査を受けた施設で、発達障害の特性についての説明を聞いたようですが、私が「発達障害って何?」と母に聞いても、「これからは気をつけようね」と言っただけ。特性なので、気をつけて治ることはないのですが、母も理解できていなかったんだと思います。
学校側にも、発達障害だということを報告はしませんでした。学習面の苦手をフォローするために塾に通ったこともありましたが、ADHD(注意欠陥多動性障害)の特性から、集中力が長く続かない私は、すぐにおしゃべりや落書きを始めてしまうので、「うちでは無理です」と塾の先生に匙を投げられて、5か所くらい転々としたこともありました。
── 当時の学校では、現在のような発達障害のある生徒への配慮や、特別支援学級などでの支援はなかったのでしょうか。
沖田さん:当時の特別支援学級は、知能に遅れがある子のための教室という存在。発達障害に知見のある先生はおらず、学校には、私のような発達障害の子をフォローしてくれる環境はありませんでした。
── 中学生のころに、再び発達検査を受けて「アスペルガー症候群(現在の自閉スペクトラム症)」だとわかったそうですが、再検査を受けた理由について教えてください。
沖田さん:中学1年生のとき、5歳下の弟とともに支援センターに行ったところ、たまたま、地元の大学の学生たちが、発達障害のデータを集めるために検査を行っていて。私も検査をしてもらった結果、LD(学習障害)やADHD(注意欠陥多動性障害)に加えて「アスペルガー症候群」の傾向があるということがわかったんです。
でも、その診断名を聞いた私は「アスペルガー症候群って何?」という感じ。本で調べると「知的障害のない自閉症」と書かれていましたが、そもそも「自閉症」のことも正しく理解できずにいました。当時のアスペルガー症候群の特性として、コミュニケーション能力や社会性の欠如、集団生活での困難などが挙げられていましたが、「私にとっては自然なこと」だったため、ピンとこない状態。その後も、自分が「発達障害である」ということを自覚できずに過ごしていました。