発達障害の特性と向き合いながら、漫画家として活動する沖田×華さん。幼少期から、仲間はずれにされたり、教師から体罰を受けるなど、特性を理解してもらえないことが原因で、数々の困難に直面してきました。(全3回中の1回)
「教室で2時間立たされ続けた」子ども時代

── 漫画家として活動される沖田さんは発達障害があるそうですね。まず、その特性についてうかがわせてください。
沖田さん:私は小学4年生のころに、発達障害の一種である「学習障害(LD)」と「注意欠陥多動性障害(ADHD)」の診断を受けたと、母から聞いています。学習面では、特に算数に苦手を感じていて、現在でも小学2年生レベルの問題までしか解くことができません。また、注意や集中を持続することも苦手で、学生時代は忘れ物ばかりしていました。
中学生になってから受けた発達検査では、社会性やコミュニケーションの難しさ、こだわりの強さが特徴とされる「アスペルガー症候群(現在の自閉スペクトラム症の一部)」という診断名も追加されています。
── 小学4年生で検査を受ける前は、どのような小学校生活を送っていましたか?
沖田さん:先生からいつも問題児扱いされていました。入学式の日から忘れ物が多く、上履きや教科書だけでなく、ランドセルすら忘れて学校に行ったこともありました。学習面においても、苦手が多く、ひらがなを書くことや算数の計算に難しさを感じていました。宿題は答えがわからないため、やむをえず白紙のまま学校に持っていくのですが、先生から「なぜ宿題をやってこないんだ」と怒られる日々の繰り返しでした。
また、ADHD(注意欠陥多動性障害)は集中力を維持しにくいことも特徴のひとつです。話を聞いている最中に、ほかのことに注意が移ってしまうことが多く、先生から怒られているときですら、私はよく「自分の世界」に入ってしまっていました。私の頭の中には、いくつかの世界が広がっていて、ふとした瞬間にその世界に没入してしまうんです。そうすると、周りの声や音に集中できなくなってしまうため、「怒られているのにケロッとしている」という印象を持たれていたと思います。
── 沖田さんに反抗心はなくても、先生は「上の空」と感じていたのかもしれませんね。ご両親は、当時の沖田さんの様子にどのような対応をされていたのでしょうか。
沖田さん:私の実家は中華料理屋だったため、父親は店の仕事で忙しく、子育てについては母親が中心でした。母は、勉強ができず、小学校で怒られてばかりいる私のことを「恥ずかしい」と感じていたようで、「ぼーっとしているあなたが悪い。恥ずかしいことをしないで」と言って、いつも私を叱っていました。母の指導のもと、数時間にも及ぶ家庭学習をさせられたこともありましたが、学習面の苦手は克服することができませんでした。
当時の母は、いつもヒステリックに怒ってばかり。私は、「学校でも先生から怒られているのに、家でまで怒られたくない」という気持ちになり、学校であったことを家で徐々に話さなくなっていきました。
── 学校にも家庭にも理解してくれる人がいない状況だったのですね。小学校3年生のときから、特定の状況下で言葉が出てこなくなってしまったとのことですが、日々のストレスが原因だったのでしょうか。
沖田さん:小学3年生のとき、宿題を忘れたことへの罰として、教室で2時間立たされ続けたことがあり、その日を境に「宿題を忘れたことを、先生から追求される」という状況下において、言葉が出なくなってしまいました。
その日、宿題をやってこなかった私を立たせた先生は「なぜ宿題を出さないんだ?」と聞いてきました。それに対して私は「宿題を忘れたからです」と答えました。すると先生は「なぜ忘れるんだ?」と続けます。しかし、その質問に答えることができず、沈黙してしまいました。なぜなら「忘れた」以外の答えを持っていなかったからです。そのときの私の頭の中は「どうしよう、どうすればいいんだろう」とパニック状態。何か返答したいと思っても、言葉を発することができません。
黙り込んでしまった私に対して、先生は「お前がちゃんと答えるまで授業はしない」と言いました。教室中が静まり返り、私だけが立ち尽くしたまま2時間が経過。給食の時間になって、ようやく沈黙の時間が終わりましたが、その日から、先生からの「なぜ宿題を忘れたのか」という言葉がトリガーとなって、言葉が出なくなるようになってしまいました。さらに、黙り続ける私に対して、先生が頻繁に手をあげるようになっていったんです。
── 沖田さんが小学生だった1980年代は、まだ現在ほど「発達障害」への認知や理解が進んでいなかった時代。忘れ物や学習における苦手、言葉が出せずに押し黙ってしまうという状態についても「努力不足」とか「反抗的な態度」だと、とらえられてしまっていたのですね。
沖田さん:「一定化の状況で言葉が出なくなる」という現象は、大人になった今でも「室内で1対1で責められる」という状況下で起こることがあります。私は社会人になってからは看護師として働いていた時期があり、その時にさまざまな症例を見聞きしていたことから、私の「話せなくなる」という状態は、「場面緘黙症」なのだろうと見当をつけることができました。緘黙状態に陥っているときはとてもつらいのに、周りからは理解が得られにくいのが難しいところだと感じています。
また、当時の先生の対応については、いまだに納得することができていません。たしかに、怒られても仕方のないことをしていたのかもしれません。でも、私のことを理解しようとせず罰したり、連帯責任のような罰でほかのクラスメイトを巻き込んだり、暴力で思い通りにしようとした対応は、未消化のまま記憶の底にずっと残っています。