「ダンソン」のリズムネタで知られる、お笑いコンビ・バンビーノの石山タオルさんは、高校2年生のとき、サッカーの試合中に大ケガをして救急搬送されました。愛媛県代表のキャプテンを務めるほどサッカーに注力していた石山さんは「初めての大きな挫折で学校に行きたくなくなってしまった」と当時を振り返ります。(全4回中の1回)
県代表として活躍していた矢先に救急搬送されて

── 石山さんは、小さいころからサッカーに注力されていたんですよね。
石山さん:はい。僕の地元は田舎だったので、小学校のころは同級生の男の子が9人しかいなかったんです。街のクラブチームでサッカーをしてたんですけど、声がでかいという理由でキャプテンに任命され、そこからサッカーにのめりこんでいきました。ちょうどそのころにJリーグが始まって。鹿島アントラーズでプレーしていたジーコが好きだったので、小学校の卒業文集にも「ブラジルでサッカーがしたい」と書いたんです。海外に行くには英語が必要だと思って、小学校のころから英語の勉強もしていました。
── その後、愛媛県代表のキャプテンも務めていた高校生のころに大きなケガを。
石山さん:高校では1~3年生合わせて80人ぐらいいるサッカー部に入部しました。総体では愛媛県で優勝するなど強いチームだったんですけど、1年生から試合にも出られるようになりました。
わりと順調なサッカー生活を送っていた高校2年生の冬にアクシデントが起きました。練習中の出来事でした。センタリングされたボールに合わせようと飛び込んだら、キーパーとゴールの間に挟まれてしまい、ゴールポストに頭を打ちつけて倒れ込んだんです。なんとか立ち上がれたものの、意識がスーッと薄くなって、体が寒くなってきました。「大丈夫か、大丈夫か!」「毛布持ってこい!」と、監督やチームメイトが叫ぶなか、「救急車だよ」という声が聞こえたのを最後に、意識を失いました。
搬送先の病院で意識が戻ったときには、体がコルセットのようなもので固められていて、そのまま入院生活に。ケガで足に麻痺が生じたため、歩き方がぎこちないうえ、位置感覚もなくなってしまったので、トイレに行くときも病院の壁に手を沿わせながら行くしかありませんでした。便座に座ろうとしても、膝が曲げられなくてつらかったです。
入院生活で特に大変だったのが階段のリハビリでした。でも、高校3年生の5月に行われるサッカーの大会に間に合うように体を戻したかったので、地獄のリハビリを重ねました。おかげで、1か月ぐらい経ったころには「誰かに支えてもらえば少しずつ歩けるようになってきたかもしれへんな」と、僕自身は感じていたんです。でも、周りから見ると補助が必要な状態で、見かねた看護師さんが車いすを出してくれたんです。
突然のアクシデントでしたし、それまでは、ケガをしたことや入院してリハビリをしていることを、どこか自分のことじゃないような感覚でいたんです。でもその瞬間、実感が急に湧いてきて。「あぁ、僕は普通に歩けているつもりやったけど、はたから見たら車いすを出してあげなあかんと思われる歩き方なんや…」と、現状を理解しました。そのときが今まででいちばん泣いたかもしれないです。
──「脳挫傷の1歩手前」という診断だったんですよね。
石山さん:はい。レントゲンではポツポツと血が飛んでいるような感じでした。もうちょっと頭の前のほうを打っていたら脳挫傷だったんですけど、2センチぐらいずれていたので手術は免れました。
大人になってから高校の同窓会に行くと、当時の話が出るんですよね。「倒れたときの映像が頭に残ってて、いまだに思い出すわ」とか「けいれんしてて、途中から泡を吹いてたよ」とか。でも、僕には高校のときの記憶がないんです。「だいちゃん、体育祭でこんなんやってたよな」「試合ですごいシュート決めてたよな」「あのとき、めっちゃ笑いとってたよな」と言われても、頭のファイルにひとつも入ってなくて。1年生のころに練習でめっちゃ走らされた思い出とかはあるんですけど(笑)。ケガをして以降は空白の状態なんです。写真を見て「みんなの言ってること、ほんまやったんやなあ」と思う感じです。
商業科の英語スピーチコンテスト1位が転機に

── 退院後はいかがでしたか?
石山さん:むちうちにもなっていたので、朝なかなか起きられなくて。もともとは自転車で40分かけて登校してたんですけど、心配した母が車で送ってくれるようになりました。
学校に着くと、階段を使うときに同級生が補助してくれたり、「応援してるよ」と書かれた手紙が下駄箱に入っていたりしたこともありました。いちばん元気だったやつがいちばん暗くなったので、周りが気を使ってくれたんですよね。ただ、励みになった反面、母にも同級生にも負担をかけていることがだんだん申し訳なくなってきて。そこから3か月間くらい、不登校じゃないですけど、学校に行きづらくなってしまいました。
── 再び学校に行けるようになったきっかけはあったのでしょうか?
石山さん:僕は、高校の商業科に通ってたんですよ。ケガで初めて大きな挫折を経験して、サッカーができひんあいだに何か違うことで頑張らなあかんと思っていたときに、全国の商業科の子が出る英語スピーチコンテストがあることを知って。英語は得意だったので勉強を頑張ってみたところ、県大会で1位になり、全国大会に出ることになったんです。このスピーチコンテストをきっかけに、海外へ行きたかった気持ちを思い出しました。兄が大阪の大学に通っていたことから関西圏の大学を意識するようになり、京都外国語大学を志望することに決めました。
当時は商業科から4年生の外大に行った子がひとりもいなかったので、みんなが簿記の勉強をしたり、電卓をたたいたりしているときに僕だけがいろんな模試を受けていました。ただ、実はそのときにもうひとり、仲間がいたんですよ。そいつは音楽大学を志望していて、実技試験のために大きな楽器を練習していたんです。商業科から音大に行った子も当時はいなかったので、そいつと僕でそれぞれ音大と外大を目指すということで、頑張ろうという気持ちになりました。
ケガの経過を診てもらうために高校から通院するときは、大きな病院がある松山市まで、サッカー部のコーチが車で連れて行ってくれてたんです。道中で「なんで1年生のときはレギュラーで試合に出られへんかったんですか?」と聞いたら、「能力的には(レギュラーで出場できる力が)あったけど、茶髪だったりシャツを出していたり、決まりを守れていなかった。そういうところも大事だよ」とか「髪の毛が黒くなって頑張ろうと思っていた矢先に大きなケガをしてしまったけど、乗り越えていけると思うよ」というような話をしてくれて。コーチと話をしているうちに、次第に気持ちが前向きになっていきました。
のちに「ダンソン」でブレイクして、イベントで愛媛県に里帰りしたら、そのコーチがたまたまいて。「大輔~!いやあ、これだけ踊れるようになったならよかった!」と言って、ハグしてくれて一緒に写真も撮ったこともいい思い出です。
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懸命なリハビリと受験勉強を経て、大学進学とブラジル留学を果たした石山さん。卒業後はNSCで出会った相方・藤田さんとバンビーノを結成しましたが、一度はコンビを解散したそうです。再結成ののち、苦節のなかでリズムネタを生み出したもののブレイクには至らず、相方と義両親に「30歳で芸人を辞める」と宣言することに。さまざまな苦労を経て、『キングオブコント2014』を機に大ブレイク。リズムネタ「ダンソン」は約10年が経った今も、子どもから大人まで幅広く愛されています。
取材・文/長田莉沙 写真提供/石山タオル