毒舌女漫才師「春やすこ・けいこ」として漫才ブームを駆け抜けた春やすこさん。人気絶頂期の1990年以降は出産・育児で仕事をセーブ。復帰したのも束の間、今度は両親のダブル介護に追われてキャリアが中断されます。(全2回中の2回)

漫才コンビを結成したのは中学2年生

春やすこ・けいこ
漫才ブーム真っただ中の春やすこ・けいこ。やすこさん(右)は当時21歳

── 松竹芸能に入ったのは小学生のころだったとか。きっかけは何だったのですか?

 

春さん:近所に父とよく行く喫茶店があり、そこを松竹芸能のマネージャーさんもときどき利用していました。当時は「松竹新喜劇」というコメディの舞台が日曜のお昼に放送されていて、そこに出演できるような子役が欲しかったそうで、喫茶店に来ていたマネージャーさんから「小学4年生ならちょうどいい」とスカウトされました。ただ、そのころ私は小学生にしては背が高かったため、実際に舞台に立つと子どもに見えないということで子役として出演することはかなわず…。舞台俳優への憧れはあったので、そのまま松竹芸能のタレント養成所の子役コースに入りました。

 

── 子役志望からどういった経緯があって漫才師としてデビューされたのでしょうか?

 

春さん:タレント養成所の子役コースに通い続けた結果、中学2年生のときには大人と一緒にレッスンを受けられる本科生になりました。子役のころは演劇や舞台のレッスンだけでしたが、本科生になると音楽やお笑いなど他のコースも受けられるようになるので、後に相方となる春けいこから「お笑いコースもちょっとのぞいてみよう」と誘われて、軽い気持ちで受講しました。始めてすぐに講師から2人でコンビを組んではどうかと言われ、3か月後には漫才師「春やすこ・けいこ」として舞台に立っていました。

 

── 3か月後!すごいスピードですね。

 

春さん:そうなんですよ。あれよあれよという間に14歳で初舞台。子役コースで学んでいたころは俳優やタレントになることを目指していたんですが、漫才師になったからといって俳優ができないわけじゃないし、漫才師として売れるほうが俳優への近道なんじゃないかと思って。まずは漫才をがんばろうと力を入れました。

毒舌漫才が人気になり1日2時間睡眠の日々

春やすこ・けいこ
やすこさん20歳のとき、第16回「上方漫才大賞」新人賞を受賞

── デビュー当時は「漫才界のピンク・レディー」というキャッチフレーズでした。

 

春さん:当初は10代の女の子らしく乙女チックなかわいらしい漫才をしていたのですが、人気はいまひとつ。デビューして5年間はまったく売れなくて、番組のアシスタント程度しか仕事はありませんでした。ある日、週刊誌で芸能人に対する悪口がいっぱい書いてある記事を見て「これネタにできるやん!」と思ってネタのスタイルを変え、「毒舌漫才」を始めたんです。ちょうどそのころ、1980年の漫才ブームが到来。ネタの強烈さや若手女漫才師ということもあって、うまいこと漫才ブームにのせてもらい、19歳で人生が変わりました。

 

── 当時の人気アイドルに毒づくような漫才スタイルと漫才ブームが合致したんですね。

 

春さん:けっこうキツイ悪口を言っていたから、コンプライアンスの厳しい今ではできない漫才です(笑)。

 

── ピーク時の忙しさはどのくらいでしたか?

 

春さん:1日2時間睡眠という日が続くこともありました。お正月には、大阪と東京を3往復したこともあります。マネージャーは現場に同行していたら間に合わないので、空港でチケットを準備して待機している状態でした。