傷が痛むのは忙しい自分への忠告

── その後、手術は無事に成功しましたが、右乳房再建はされなかったそうですね。
鈴木さん:手術後にシャワー室で初めて傷口を見たときは気を失いそうになるほどの衝撃で、一生この体で生きていくのだと号泣しました。今後、どのような選択をするかはわかりませんが、現在は乳房を再建する予定はありません。というのも、この傷は仕事漬けだった私に「無理をしすぎずに生活を見直し、人生でやるべきことをやりなさい」と教えてくれたお知らせだと思っています。今も無理をしすぎると傷がチクチクと痛むことがあり、「きちんと休まなければ」と気づくことができるアラートになっています。
── 術後は6か月に及ぶ抗がん剤治療、放射線治療などでつらい体の症状だけでなく、錯覚や幻想、妄想などに悩まされる日々も続きました。乗り越えられたのは、周りからのサポートが大きかったそうですね。
鈴木さん:術後すぐは前向きな気持ちを保てていましたが、副作用による吐き気やごっそり抜ける髪の毛などに、心身ともに病人になってしまいました。永遠にこの苦しみから解放されないのではと感じました。
副作用によるせん妄状態がひどく、その後にふさぎ込んでうつ状態になってしまったとき、たくさんの人が私を助けてくれました。抗がん剤治療が始まってからは精神的にもう生きていたくないと思ったこともありましたが、家族、友人、彼がローテーションを組んで、いつも誰かしらが私の部屋にいてくれたり、体調がいいときは気晴らしにどこかに連れ出してくれたり。それでも精神的にお誘いにのれない時期があり申し訳ないという気持ちもありましたが、病気で本当につらいときは気にせずそれに甘えてよかったのだと今は思えます。
実は闘病生活を映像記録に残していたのですが、それも私のなかで治療をがんばれた要因のひとつでした。

── それはお仕事と関係あるのですか?
鈴木さん:結果的にその映像はドキュメンタリーとして放送しました。信頼していた会社の先輩が「美穂は絶対に復活するから、きっと後から映像に撮っておけばよかったと思うはず。二度と再現はできないから撮影をしておいて、同じような人を励ますために活用するとか使い方は後から決めればいい」と言ってくださったんです。それを聞いて撮影をお願いすることにしたのですが、闘病中もきっとこれがいつか誰かの役に立つ、これは取材なんだと思うことで、正気を保てたところはあったと思います。
たくさんの人が私のことを支えてくれましたが、あとはやはり家族の存在は大きかったですね。
── 印象に残っているご家族のサポートはありますか?
鈴木さん:どんなに治療がつらいときでも「美穂は美穂でいいよ。美穂は生きているだけでいい」と母が言ってくれたことですね。母はよく名言を言ってくれる人で、闘病中の「もう逃げ出したい」と思ったときも「神さまは乗り越えられる試練しか与えない」「笑っても泣いても一生。人生一度きりなら、笑って過ごそう」という言葉で踏ん張ることができました。
両親と妹の4人家族なのですが、母と妹は私が病気だとわかると仕事を辞め、父も赴任先のバンコクから日本に帰国。父はそれまで順調だったキャリアを捨て、出世を諦めて私のそばにずっといてくれました。昔から父の仕事の関係で4年間暮らした慣れないアメリカ生活、妹の不登校など、家族のピンチはみんなで乗り越えてきたので、あのときもそうしてくれたのだと思いますが、本当に感謝しかないです。
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手術後8か月で仕事に復帰、10年経って完治したとみなせる時期を迎えた鈴木さん。がん経験を活かして自分にできることはないか考え、記者をしながら、がんを経験した人やその家族のサポートをする「マギーズ東京」を開所。がんになっても生きやすい社会づくりや支援の充実に力を注いでいるそうです。
取材・文/酒井明子 写真提供/鈴木美穂