脳性まひとわかったことで、次へ進める気がした

畠山織恵
畠山織恵さんと幼いころの亮夏さん

── ご自宅での育児がスタートしたのですね。

 

畠山さん:「子育てって、こんなに大変なん!?」と思いました。夜は眠らない、ミルクは飲まない、ずっと泣いていて。今思うと明らかにほかの子とは違ったのに、ひとり目だからわからなかったんですよね。小児科の先生や発育相談の保健師さんに何度か相談しましたが、「小さく産まれたからね。様子を見ましょう」と言われて、「こんなに大変なことを、みんなやっているのか。母親ってすごい!」と思っていました。

 

眠れなくて心身ともに追い詰められて、隣でぐうぐう眠る夫に殺意がわいたこともありましたけど、仕事が忙しい夫に頼ってはいけないと思っていました。夫は聞き上手というか、私が何か相談しても「どうなんやろなぁ」「ほんまやなぁ」と言うだけなんです。自分で選んで子どもを産んだのだから、「しんどいなんて言っちゃいけない」「疲れたから代わってほしいと言っちゃいけない」とひとりで抱え込んでしまっていました。

 

──「脳性まひ」と診断されたのはいつごろのことですか。

 

畠山さん:生後9か月か10か月のときです。リハビリができる病院を紹介してもらって転院したら、ひと目で「脳性まひです」と。「もっと早く連れてくればよかったのに」と先生に言われたときは、さすがに腹が立ちました。「何度も相談していたのに!」って。

 

同時に、ホッとしました。「ですよね」と。亮夏は同じ月齢の子たちと比べると、誰が見てもわかるくらい、いろいろなことが違っていたんです。いつまでも首が座らないし、笑わない。目の前におもちゃを置いても、手を伸ばそうとしない。何かあるとは思っていたので、理由がわかったことで次へ進める気がしました。

 

脳性まひというのは、出産のときに酸素がうまく脳に回らず、脳の一部が損傷することによって起こる障がいです。亮夏の場合は脳の運動機能をつかさどる部分にダメージを受けたため、「歩くことも話すことも難しいだろう」と言われました。そのときの私は、ショックを受けるというよりは「それで?どうすればいい?」という感じ。「とにかくリハビリをがんばればいいんだ」とやるべきことが見えて、「やっとアクションを起こせる」という気持ちが大きかったです。

 

脳性まひと診断された日、家に帰ってから、夫はベランダでひとり泣いていました。「亮夏がかわいそうや」と言って。夫が先に泣いてくれたおかげで、私は泣かずにすんだのだと思います。

 

 

19歳で母となった畠山さん。脳性まひの息子さんとの暮らしが始まりました。診断直後は誰にも頼らず1人で頑張りすぎて体を壊してしまったこともあるそうです。そんなときに手を差し伸べてくれた義父母や保育園のおかげで畠山さんは大いに救われたそうです。現在25歳になった息子の亮夏さんは、「脳性まひ」と診断されたときには考えられなかった以上の成長を遂げ、いろいろなことに挑戦しています。

 

PROFILE 畠山織恵さん

はたけやま・おりえ。重度脳性まひの息子とともに一般社団法人HI FIVE設立。介護・医療従事者向け研修や、専門学校や大学での講師、講演などの活動を行う。著書に『ピンヒールで車椅子を押す』(すばる舎)。

取材・文/林優子 写真提供/畠山織恵