高校生のころの楽しかった記憶や憧れはいつしか色褪せていくことが多いなか、そのころの思いにまっすぐに向き合って仕事にしていく。渋谷でとがった学校を立ち上げた、赤荻瞳さんの想いとは?(全2回中の1回)

伝説のギャル雑誌『egg』復刊を目指して編集長に

── 2023年に「渋谷女子インターナショナルスクール」(シブジョ)を立ち上げ、校長を務める赤荻瞳さん。シブジョは全日の通信制サポート校で、高校卒業に必要な通信制高校の授業については他校と連携。その単位取得のサポートに加え、SNS・動画編集・英会話を主軸としたさまざまな授業もされています。ただ、校長就任以前、赤荻さんはギャル雑誌『egg』復刊の立役者として編集長を務めていましたよね?

 

赤荻さん:はい。私自身、もともと10代のとき渋谷でギャルサーに入っていて、『egg』は憧れの雑誌でした。けれど私がギャルサーに入ったときはもうギャルサー自体が衰退しつつあったころで、『egg』も休刊になってしまって。復刊した『egg』の編集長になったのは21歳のとき。『egg』が復活すると聞いて、これはもうやるしかない「私が編集長をやります!」と手を上げました。当時はギャル向けの事業を展開する広告代理店で働いていたころ。勤めていた会社がプロジェクトとして運よく『egg』を手掛けることになったので、編集長をやりたいと手をあげたんです。

 

当初『egg』はweb媒体で復活させるという話でした。でも私としては、紙媒体にしたかった。いつかはコンビニに並ぶ雑誌にしたいと考えていて、「1万リツイート達成したら雑誌を作る!」というTwitterの企画を立てました。eggモデル全員で拡散し、1週間以内に目標を達成することができました。1万リツイートが達成するならば、雑誌を買ってくれそうなファンがいるだろうと、制作に乗り出せた感じです。実際に完成した雑誌がコンビに並んでいるところを見たときは、もうすごい感動でしたね。

 

赤荻瞳
『egg』編集長として活躍していたころ

── 未経験からの雑誌作りで、とまどうことはなかったですか?

 

赤荻さん:ギャルサー時代の経験が役に立ったし、抵抗なく取り組めました。ギャルサーは年に2回大きなイベントがあり、私はそこでパンフレットなど、制作物の係をしていたんです。だから誌面のレイアウトを作るラフの書き方など、雑誌作りのニュアンスはなんとなくわかっていたからです。

 

また、なんとしても成功させたかったので、編集長とはいえ、営業もかなり頑張りました。カラコンやケーキの会社から水着や下着の会社まで、広告を獲得するためにみずから売りこみに行っていました。ただ、それらもすべてギャルサー時代のツテ。ギャルサーで中心メンバーだった方々は渋谷近辺で起業している人が多く「『egg』を一緒に盛り上げてください!」と、大先輩たちにお願いして回りました。