支えは「2800万円入った通帳を見ること」

── 当時どんなことが支えだったのですか?

 

波田さん:支え、ですか…。正直、毎日が精一杯で。当時、テレビの出演料やCMのギャラのおかげで最高月収が2800万円のときがあったんですが、それが入金された貯金通帳を見るくらいじゃないですかね(笑)。2004年12月までは「今年人気のある芸人」ということで、営業に行ってもテレビに出ても、お客さんが盛り上がったんです。でも、2005年になった瞬間「去年の人」みたいになって。同じネタをやっているのに明らかに反応が変わりました。これはお客さんのせいじゃなくて、新しいネタを生み出せなかった僕の実力のせいなんです。でも、怖かったですね。「僕に全然、興味ないじゃん」って。

 

── そこから一気に仕事が減っていったのですか?

 

波田さん:そこから1日5、6件入っていた仕事が1日1件になり、週1、2日休みになり。2005年の春ぐらいまでに仕事がポツポツ減っていきましたよね。「俺ってもういらなくなったんだ」というのは、どんどん実感しました。必要とされていないんだという。そこからですよね、本当の苦しみが始まるのは。

 

下積み時代はまだ希望を持った苦しみですから、そこまで苦しくないんですよね。芸人仲間と新宿で1杯50円ぐらいの焼酎を飲みながら、朝まで夢を語っていたわけですよ。でも、だんだん仕事が減って、営業に行っても客がどんどん減っていく。給料も減って、事務所からも周囲からも相手にされなくなって。「もう俺、どこにも居場所もないんだ」って。逆に人前に出るのが恥ずかしいくらいでした。ギター侍に代わるぐらいのネタがあれば変わっていたんでしょうけど、そこまでの準備が何もできていない自分が情けなかったですね。

 

波田陽区
2016年に活動の拠点を東京から福岡に移しました

──『クイズ!ヘキサゴン』(フジテレビ系)に出始めたときは、いわゆる一発屋枠での露出だったのでしょうか。

 

波田陽区さん:僕は学力は普通なんですよ。後日スタッフさんから聞いたのは、キャラが立っていない「普通の人」が必要だったと。なので、おバカキャラの人にゲームの説明をするとか、クイズを滞りなく進めるための人として呼んでもらっていたそうです。番組では必要かもしれませんけど、見ている人にとっては誰でもいいポジションですから。人数合わせとして入れてもらっていた感じです。

 

── ヘキサゴンでは「一発屋2008」として歌も出していました。「一発屋」と呼ばれることを、当時どのように思っていましたか?

 

波田さん:最初は嫌でしたよ。一発屋になろうと思って芸人を始めたわけじゃないし「ダメ人間」「終わったやつ」みたいなレッテルなわけなので。恥ずかしいじゃないですか、バカにされるみたいな仕事ばっかりで。どの番組に行っても「最高月収」と「最低月収」、「今の悲しい話」の3つを言うだけなんですよ。それで、だいたい説教するようなゲストから「もっとこうしたほうがいいんじゃない?」ってアドバイスされて。「すいません、頑張ります」みたいな、そういう仕事しかなくなって。

 

そのときは、もうスネていましたね。「どうせ俺なんて一発屋なんだから、誰も興味ねえんだろ」みたいな。今では、呼んでいただくのはすごくありがたいですよ。「一発屋大集合」みたいな企画があれば喜んでいきます。スキップで(笑)。でも、当時は自分の中で消化できていなかったんですね。

 

── 消化できたタイミングはあったのですか?

 

波田さん:10年前に福岡に引っ越してきたんですが、その少し前くらいですね。当時はいじけて仕事をしていましたが、そういう仕事ぶりを見て、応援してくれている人もいるんだって気づくようになって。「あの番組観ましたよ」「頑張ってください」って人が出てきてくれるようになったんです。仕事がなくなったことで、逆にまわりに感謝できるようになりました。

 

 

「誰も俺に興味ねえんだろ」。一発屋と呼ばれるようになり、自信を失っていた波田陽区さん。2007年に10年近く遠距離恋愛を続けた末に結婚し、子宝にも恵まれますが、思うように稼げない自分にかえって負い目を感じるように。そんなすさんだ心を支えてくれたのは、家族と師匠と呼ぶ間寛平さんのご夫妻だったそうです。

 

PROFILE 波田陽区さん

はた・ようく。1975年山口県下関市生まれ。ギターをかき鳴らしながらタレントや著名人にツッコみを入れる「ギター侍」ネタで2004年にブレイク。現在は福岡県を拠点に、テレビや営業など幅広く活動中。

 

取材/文・市岡ひかり 写真提供/波田陽区、ワタナベエンターテインメント